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​「解体新書」の頃

とにもかくにも哥以劇場の旗揚げ公演は終った。
舞台に対する批判もさることながら、やはり少し金銭的にも無理があって赤字になったことが問題となった。
その赤字を劇団員で負担する事と、次回公演に向けての準備金も拠出しあう事で、ひともめあったのだ。
そうしてわずか5人の劇団員の俳優のうち、2人が抜けて行った。
でも、私たちは全くめげていなかった。
演出のHの頭の中には次回公演の構想もあったし、公演場所も海外公演で留守になる天井桟敷のアトリエが安く借りられることになっていたのだから。
理生さんは早速次回の脚本作りに着手し、私たち俳優3人は体を鍛えるべく、代々木公園でトレーニングに励んだ。
HはHで、元麻布に引っ越したばかりの天井桟敷のアトリエの使い方を考えたり、劇団蟷螂(とうろう)の小松杏里に助っ人を要請していたりした。
第2回公演は「解体新書」というタイトルで、平賀源内と出島を題材とした物語だった。
音楽は前回に引き続き湯本香樹実、照明は小松杏里にお願いしてかなり画期的な照明になりそうだった。
美術もデスマスクを作ったり、当時まだほとんど使われていなかったレーザー光線を使ったりするプランが出ていた。
ところが、そこでまた問題が起きる。
たった一人の劇団員女優のMが、トレーニング中に足を骨折して出られなくなってしまったのだ。
幸い、この新作は男が中心となる作品だったので、Mには次の公演に頑張ってもらうことになった。
それに、蟷螂の木村明(後の大鷹明)と冬雁子、それに天井桟敷の国内居残り組の水岡彰宏という強力な助っ人たちのおかげで、むしろ旗揚げ公演よりも幅のある役者陣で上演できた。
もちろん、残った劇団員の俳優である私と、もう一人、葉月海彦も頑張った。
実はこの彼こそは、現在劇団「円」の演出家山本健翔となるのだが、当時はまだそんな面影もなく皆から「海ちゃん、海ちゃん」と呼ばれていた。

元麻布の天井桟敷館は、道路側に喫茶店を併設していて、午後稽古に行くと留守を任されている一人の劇団員がコーヒーを入れていた。
少し早く着いた日などは、ここでコーヒーを飲みながら、飾られている天井桟敷関係の本をめくり、海外での演劇事情の匂いを嗅いだりした。
そうして迎えた本番の日、天井桟敷の一行と寺山さんは帰国して、私たちのこの舞台を見た。
理生さん、寺山さんはあの舞台について、何て言ってたんですか?
公演後、理生さんは、アトリエの横にある寺山さんの書斎と名付けられた一角に呼ばれて、長い時間出てこなかった。
私は平賀源内の役をやり、出島という江戸時代唯一の海外との交流の場を、自由に出入りする人物を表現したつもりだった。
しかし、よく考えてみれば、当時海外公演をする数少ない天井桟敷と言う劇団のアトリエは、実はそれ自体が演劇界の出島であり、寺山さんこそは日本と海外とを自由に出入りする平賀源内その人だったのかもしれない。

解体新書

「捨子物語」の頃

旗揚げ公演は無国籍無時代の観念的なお話だった。
第二回公演は江戸時代の一人の男の話だった。
では第三回公演は大正時代の一人の女の話をやろう。
演出のHには次回公演の構想はなく、逆に理生さんには以前からずっと書いてみたかった女の話があった。
第二回公演には骨折で出られなかった唯一の劇団員女優Mも復帰して、今回は万全で出られる。
こうして最初の「捨子物語」の戯曲は生れた。
ところが今度はもう一人の劇団員俳優の葉月海彦が、劇団「円」の研究生になるので辞めたいと言う。
仕方が無いので、またまた劇団蟷螂の小松杏里に援護射撃をお願いする。
今回は杏里自らが出演してくれると言う。
それから前回も出演してくれた天井桟敷の水岡彰宏も再び出演してくれると言う。
演出のHは以前から能に興味を持っていて、今回は早稲田のサークル「観世会」にも応援を要請していた。
スタッフも舞台監督以外は全員助っ人にお願いした。
なにしろこの時点で劇団員は理生さん、演出のH、舞台監督のY、それに女優のMと私の五人きりだったのだから。
そう言えば、この公演の前後に、この五人で伊豆高原の知り合いの別荘に合宿に行った事がありましたよね?
麻雀やったり海に行ったり、まるで五人兄弟みたいに仲良く楽しく遊びましたよね?覚えていますか?
思えば、その時点で既にこの劇団の崩壊の萌芽のようなものがあったのですが、私は全く気付きませんでした。

お芝居の内容は、不在の父を探し求める一人の捨子の一生を、大正という時代と大正天皇という人物との関係を通して、きわめて映像的に各シーンを繋ぎ合わせた、コラージュのような作品だった。
そのせいか、主人公の捨子を女優のMがやっている限り、他の登場人物たちは三人の男優が入れ替わり立ち代り何役もやっていても、あまり気にならなかったのではないかと思う。
あるシーンでは主人公を買いに来た車夫と薬屋だったのが、違うシーンでは主人公を裁く裁判官と検事になっているという具合だ。
それにしても、米泥棒と化した大正天皇が女に殺されて、それを憲兵が発見する場面なぞ、大正天皇で殺されて一枚の襖の陰に這って行き、そこで憲兵の帽子だけかぶって、しゃあしゃあとして登場して「あっ、こ、このお方は…、陛下!」と叫ぶなんて、全く無茶苦茶をやったものである。
この時、私のやった役は全部で9個くらいになっていただろうか。
普通に考えれば非常識なのだろうが、私にとってはいくつもの役を変幻自在にやる、そういう存在の役として、整合性を取っていたのだった。
まるで以前に理生さんに諭されたように、自分の中のいろいろな要素を円周に描くことで中心点を探し求めていたと言っても良い。
一方、主人公の灰子と言う名の捨子を演じたMは、理生さんの描く女性像の体現者として、まるで水を得た魚のように生き生きと演じきっていた。
そうして出来上がった「捨子物語」は、それまで天井桟敷で書いていた作品と違って、理生さんのオリジナリティーがハッキリと表現された作品として、その舞台もなかなかに評判が良く、結果的にはこの劇団を代表する作品となって行くのだった。

捨子物語.jpg

「捨子物語」の頃2

捨子物語の初演が終った頃、「墜ちる男」のSが作っていた劇団が空中分裂をする。
主演女優のTがSとの痴情のもつれから(?)、Tが本番当日劇場に来なくて、つまりスッポカしたのだ。
なんとか代役を立てて公演はしたらしいのだが、それが問題になって公演終了後の劇団が解散してしまう。
一方、私たちの劇団の方は、決定的に人材不足で、次回公演に向けて出演者を募集していた。
そんなわけで、そのスッポカシ女優Tは私たちの劇団員となった。
前回の公演の時、劇団蟷螂の新人として手伝ってくれていた雛涼子もこの時から劇団員に加わった。
早稲田の観世会の関係で、能をやっていたIとKも加わった。
皆それぞれ別の場所から劇団に入って来たので、ツギハギだらけではあったが、そうして次回の捨子物語再演では劇団員の役者が大幅に増えることになる。
公演場所も初演の時よりも少し大きな会場で、脚本の方も大幅に手直しされた。
初演の捨子物語で女優としての花を咲かせていたMと、それとは好対照に前回の自分の公演をスッポカし、役者としての自殺行為を行ってしまったTは、お互いに別々の理由から、次回公演の演技に命を賭けていた。
Mが女の情念を表現するのが得意だとすれば、Tは少女をやらせたら天下一品だった。
打ち合わせの時なんか、そんな2人のことを「マサカリのMとカミソリのT]と言い合っていましたよね。
Tにはスッポカシの前科がありリスクもあったが、その演技はそれを十分に補っていて、おかげで女優陣の幅が広がった。
男優の方は杏里とか水岡に頼まない分、むしろ前回よりも弱かったかもしれないが、なによりも劇団員だけで賄えるようになっただけでも良かった。

そんな時、パルコ劇場からお声がかかる。
来年の春、渋谷パルコの裏(現在のパルコパート3の場所)にテントを建ててドラマフェスティバルをやるので、それに参加しないかとのお誘いであった。
劇団のラインナップを聞いてみれば、既に名の知れていた竹内銃一郎率いる「斜光社」とか、学生演劇として飛ぶ鳥を落す勢いの「夢の遊民社」なども入っている。
この誘いを逃す手は無い。
しかし、今から新作は無理そうだ。
では、今やっている「捨子物語」をもう一度再演しよう。
少し無理を重ねることにはなるけれど、劇団がやっと軌道に乗ってきたとの思いを皆感じていた。
パルコ劇場からの帰り道、みんなでそんな話をした後、理生さん、あなたはこんな風に言いましたよね。
「十年で天井桟敷にならなくてもいいから、五年で転形劇場になろうね。」
理生さんがどんな思いでそう言ったのかは分らない。
ただ、それまで来年の事さえ分らない浮き草のような劇団だったのに、急に五年後十年後の話が出て、私は大いに驚きました。
「捨子物語」は劇団が劇団になって行く、その過程に上演された理生さんの初期の代表作で、この再演は正にその真っ只中に上演された作品だったのだ。
 

捨子物語2.jpg

「捨子物語」の頃3

そして、あの伝説となったパルコドラマフェスティバルである。
何が伝説となったかというと、その舞台成果ではなく、企画したパルコ側の手際の悪さから、とんでもないトラブルが発生してしまった点である。
もともと各公演の入場料は1500円に設定されていて、当時の小劇場の値段としては高額ではあった。
しかし、これは大きなテントでの公演だし、なんといってもパルコの興行なのだから当然だと思っていた。
ところが、公演も間近に迫った時点での打ち合わせで、パルコ側の制作が突然入場料の値下げを言い出したのだ。
もちろん、この企画は全面的にパルコ側の予算でやられるのだから、入場料をいくらに設定するかは最終的にはパルコが決めても構わなかった。
だから最初から800円とか1000円になっていたなら、何の問題もなかったと思う。
ところが、この時パルコの制作の人間が「ウチのオーナーがパルコ劇場でやっているつかこうへい事務所の公演が1500円なんだから、そんなテントでやる公演は800円でいいじゃないか、と言うんですよ。」などと説明したもんだから、いきなり紛糾してしまったのだった。
特に竹内銃一郎(当時は純一郎と名乗っていた)率いる斜光社のメンバーはかたくなで、そんな考え方で入場料を設定するのなら、いっそ無料にしてしまえ!と主張するのだった。
結局、入場料無料の提案をパルコは受け入れざるを得なくなったのだが、それが決まったのは既にトップバッターの遊眠社の仕込みの日であった。
そして、それでもなお怒りの収まらない斜光社は、公演当日パルコを糾弾するアジビラを配ったりした。
まあ、おかげで客席数200~300のテント公演は連日満員で、私たちの公演も盛況だった。
出し物は前回と同じ「捨子物語」だったが、舞台が広くなった分、またいろいろと助っ人に手伝って貰った。
娼家の女主人は、後の早稲田「新」劇場の主演女優Sにお願いしたし、装置には後に一緒の劇団になる和田喜夫氏に考えてもらった。
場面転換の要員に天井桟敷の研究生数人を使い、そのせいもあってテントの近くに住んでいた寺山さんが何度も顔を出した。

そんなトラブルと奇妙な熱気の中ではあったが、舞台の方は評判も良く、私自身も役者として肝を据えて演技ができたと思う。
劇団を作ってほぼ二年、体制もやっと軌道に乗り、外部からの一定の評価も得られるようになった。
そんなことを実感できる充実した舞台だったと思う。
一つの作品を何度も再演し、その中で完成した作品に仕上げて行く。
これは既に天井桟敷でも何度も行われていた手法ではあったが、私たちの劇団でもまた、この手法の有効性が証明された訳である。
理生さん、今だから告白しますけどね。
私、あのテント劇場での公演中に、初めて幽体離脱のような体験をしたんですよ。
ほんのわずかの時間でしたが、舞台上で演技している自分自身の姿を、頭上3メートルくらいの所から眺めたり、客席から見つめていたりしたんです。
後で考えれば、ただの貧血状態で意識が薄れていただけなのかもしれませんけどね。
いずれにしても、この気持ちの良い体験がもう一度したくて、その為にその後も役者を続けて来たと言う事もできます。
そういう意味でも、この公演は私の中で、もっとも想い入れの深い舞台となったのです。

新人公開ワークショップ「凧」の頃

パルコドラマフェスティバルが終ると、私たちは次回公演まで少し間を空けて、拠点作りの作業に取り掛かった。
なんのことはない。どこか安く貸してくれそうな倉庫のような場所を探すことと、個人的にバイトを増やして、その頭金をみんなで出し合う事だ。
今考えれば、みんなよくやったと思う。
約半年の間にそれぞれ20万円ずつ持ち寄り、一年後には一人前に自前のアトリエを持つ事ができたのだから。
私も普段やっている平日の夜のバイトに加えて、土日だけのバイトがうまく見つかり、わずか半年で20万円を作る事ができた。
さて、そのアトリエ探しとアトリエ作りの話は、後に書くとして、捨子物語の次の公演の話である。
演出のSが「捨子では大正天皇をやったから、次は昭和天皇をやろう。」と言う。
捨子で女を描く事に自信を持った理生さんは、「じゃあ、物語の背景として昭和天皇を置き、一人の女の話をやりましょう。」と答えた。
劇場はドラマフェスの時に一緒になった流星舎の森尻さんがやっている銅鑼魔館。時期は8ヵ月後の12月と決まった。
ところが、劇団員は増えていたものの、経験の少ない役者ばかりなのが悩みの種だった。
ちょうどお金を作らなくてはいけない時期で、みな忙しかったので、では、次回公演までの間に新人たちを中心にしたワークショップをやろうという事になった。
昔の付き合いで早稲田の劇研がアトリエを貸してくれると言う。
そうして泉鏡花の言葉を中心にして「凧」と言う名前のワークショップをやったのである。
でも、この公演、新人達のためとか言いながら、理生さんは自分の言葉と泉鏡花の言葉を融合させる実験をしていたんですね?
その成果は続く「臘月記」と「夢の浮橋」に如実に現われていますもんね。

新しい劇団スタッフが増えたのも、この頃でしたよね。
美術担当のMさんやOさん。そしてこの後、制作や舞台監督などとして、劇団の中核を担っていくNさんが加入したのもこの時期でした。
新人が中心とは言え、私たち創立メンバーの役者も出演したので、発表会と言うよりも、小公演といった趣だった。
理生さんのオリジナルでなかった分、理生さんも稽古場に来る事が多くて、和気藹々とした暖かい現場だったと記憶している。
新人の中でも雛涼子と二枚目の少年Mを主役の母子にして、ストーリーを展開させる役にした。
Mはその瑞々しい演技が買われ、後に理生さんが脚本を書いた日活ロマンポルノの映画にも出演することになる。
一方の雛涼子はこの母親役があたり役となり、この後母親とか老婆の役が多くなる。
こうして主演女優のMが女を、途中から入ったTが少女を、そして雛が母親をやるという、劇団の一つのパターンが確立したわけである。
私はといえば、泉鏡花の登場人物の女に鞭打たれる役を、肉布団を体にいっぱいに付けて、ヒーヒー言いながら楽しんでやっていた。
暑くてエアコンの効かない劇研のアトリエは蒸し風呂状態だったが、何故か爽やかで風通しの良い稽古現場だった。
ワークショップという気楽さと、前途がこれからどんどん開けていくという確信が、劇団員全員にあったからかもしれない。
そんな幸福な状態で、劇団のもう一つの代表作となる次回公演に向っていたのである。
劇団はまさに風を受けて舞い上がる凧そのものだった。
ただしその行方は誰にも予想できなかったし、その基盤は凧の糸のごとく頼りないものでもあった。
 

「臘月記」の頃

岸田理生の初期作品の代表作と言えば「捨子物語」だと思うのだが、理生さん自身は「臘月記」を代表作だと思っていたんですよね。
その証拠に第一戯曲集として出版された本のタイトルは、「捨子物語」が併載されているにも関わらず、「臘月記」である。
確かに「捨子物語」で劇団の評価はされたのだが、この「臘月記」の主人公咲良(さくら)に対する理生さんの思いいれは相当なものだったのだろう。
主演女優のMもそれに答えて難しい役どころを演じきったと思うし、演出のHもそれまでとは真剣さが違ったように思う。
稽古場で一度HがMに対して激しく怒った事があった。
Mがまるでスターのように他の劇団員に振舞った事に腹を立てたのだ。
しかし、私には別にそれ程真剣に怒るべき状況とも思えなかったので、稽古の後Mを誘って飲みに行き慰めようと思った。
ところが飲み屋でお酒がまわるにつれて、Mはとんでもない事を言い出したのだった。
私、Hさんが好きなの。もちろん理生さんの事も好きだけど、Hさんに対するこの気持ちはどうしようもないのよ。
つまりもう半年くらい前からHとは付き合っていて、理生さんも薄々そのことに気付いていると言うのだ。
演出家と主演女優とは、その現場が真剣であればあるほど、惹かれあうもののようで、Hも真剣にMと役の事を考えているうちに付き合うようになったようだ。
しかし、理生さんとしても、自分の想いをMとM演じる主役の女性に託していたわけで、その公私を一緒にはして欲しくなかったのだと思う。
まだ、この時点では、演出Hと理生さんは仲もよく、Mとは単純に浮気のつもりだったのかもしれない。
しかし、Mの方としてみれば、それだけでは気持ちが治まらなかったのだと思う。
臘月記の稽古を真剣にやればやる程、益々Hに対する気持ちが激しくなって行く。
一方のHとしても真剣に稽古をすればする程、Mへの感情が激しくなり、それを見ている理生さんは理生さんで、複雑な心境になる。

そんな綱渡りのような感情の拮抗の中で、この「臘月記」は上演された。
にも関わらず、いや、だからこそかもしれない。
臘月記の舞台は静謐さの中に激しさを孕んだ、行き詰まるような緊張感があり、その舞台成果も確実に力のあるものだったと思う。
かく言う私は私で、主人公の女に溺れていく生真面目な将校の役がはまり、なかなか好評でもあった。
他の劇団員も、夏のワークショップのおかげで、役者は役者で一皮むけていたし、スタッフもスムーズな仕事ぶりだった。
公演が終れば、本格的に自前のアトリエになる物件探しが始まる。
劇団としては正に順風満帆、前途は洋々として見えた。
しかし、その内情はドロドロで、HとMと理生さんとの三角関係という、崩壊への火種を抱えていたのだ。
そしてこの三角関係、公演を重ねる毎に益々強固になり、強固になればなる程、崩壊の衝撃は大きなものとなるはずだった。
季節は12月、正に臘月の言葉通り、身も引き締まる冷気に浮かぶ鋭い鎌のような三日月。
その冷たい凶器がいつどこに向って振り下ろされるのか、この時点では誰にも分らなかった。
 

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「夢の浮橋」の頃

「臘月記」が終わると、私達は一斉に劇団のアトリエ探しに取りかかった。
最寄の不動産屋さんを片っ端からあたり、改装すればスタジオになりそうな物件を探すのだ。
私も中野の南口商店街に元キャバレーがあったビルの地下の一室を見つけてきた。
立地条件も値段もいいし、なによりも商店街の地下だから、近所に騒音の気遣いをしないですむのがいいと思った。
ただ肝心のスペースの大きさが、小さな公演をやるには少し狭すぎた。
一方、演出のHが見つけてきたのは、江戸川橋にある倉庫のような場所で、二階はアパート、近所は普通の民家だった。
場所は少し悪いし、ご近所づきあいは、かなり慎重にしないといけないが、スペースの大きさはバツグンだった。
広い部屋が二部屋もあって、その間仕切りをブチ抜けば、小さな公演も充分できる場所だった。
皆で下見に行き、その後の相談で、防音と道路側の改装をして使うことが提案された。
近所の商店は下町の少しうらぶれた感じがして、このしみったれて、でも人情味溢れていそうな感じが、私達の劇団に合っているようにも感じたのだった。
臘月記から制作を担当するようになったNが、知り合いの建築屋から、防音の仕方を聞いてきて、それに従って大幅に改装して使うことになった。
土方仕事の経験のあるIが仕切って、セメントで舞台の土台部分を作る。
壁と天井はグラスウールと石膏ボードで塞ぎ、扉は二重にした。
最後に舞台に敷きつめる薄い平台を作り、即席の稽古場と事務所は完成した。

そうこうしているうちに次回公演の期日も迫ってきた。
制作のNが法政大学と話をして来て、「黒いスポットライト」と言う名目で法政の小ホールでの公演も決まった。
作ったばかりのアトリエ公演と併せて、都内二箇所での連続公演は始めての経験だった。
その頃は夜稽古だったので、毎日の稽古の後には、事務所側の部屋で夜毎酒盛りが始まった。
みんなからお金をカンパしてもらって、近所の酒屋から安酒を買ってきて飲む。
飲みすぎて帰れなくなっても、そのままアトリエに眠る事もできる。
そして二日酔いの目をこすりながら、翌日の仕事に行き、また夕方になると稽古場に集まり、稽古後には酒が待っている。
この時期、私達は芝居作りをしながら、まるで家族のような関係作りをしていたのかもしれない。
やりたい芝居は一致している。飲みたい酒はいつでもある。
そして何よりも劇団員にはアトリエと言う名の帰るイエがあったのだ。
そんな濃厚な劇団員同士の関係は、中に入ってしまえば居心地がよく、新人もどんどん増えていった。
もちろん、演出のHと女優M、そして理生さんとの三角関係は、何も改善することなく、むしろその三角形と言う関係は誰も関与できない代わりに、絶対壊れない形のようにも思えた。
アトリエと言う名のイエの元で、私達はそれぞれ別々の夢を見ていたようにも思う。
つまり、アトリエはこの劇団にとって、正に夢の浮橋のような存在だったのかもしれないのだ。
 

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「八百屋の犬」の頃

この時期の事を思い出すと、甘酸っぱいようなほろ苦いような、なんとも言い知れぬ気持ちに襲われる。
劇団員同士は、それがいかに脆い関係だったとしても、そこには確実に擬似家族のような親密感が溢れていた。
若い男女が一日の大半を伴に過ごすわけだから、男と女の関係も、別に演出のHと女優のMと理生さんの三角関係だけでは決してなかった。
私は私で別の人間との間で三角関係に陥っていたし、誰が誰に手を出しただの、誰が誰と別れただの、とにかく肝心のお芝居以外にいろいろな出来事があった。
しかし、そんなグチャグチャな男女関係があったとしても、最終的には劇団員は家族だとの想いの方が強かったと思う。
つまりはお芝居という共同幻想を共有し、劇団という家族を伴に作り上げている満足感でいっぱいだったのだ。
「夢の浮橋」は理生さんお得意の父娘の近親愛と、そこに母親が絡んで、まるで現実の三角関係を模したセリフまで登場する。
劇団としての互いの絆は深くなったが、その分馴れ合いの部分もあり、舞台成果としては今一つ良くなかった。
私の演じた父親もあまり好評ではなく、なんであの役者が母親と娘の両方に好かれるのか分らない、などと散々な評価だった。
しかし、とにもかくにも「捨子物語」と「臘月記」「夢の浮橋」で、女三部作は完成した。
ひょっとすると、三角関係が煮詰まってきて、女の話がやりにくくなってきたせいもあったのかもしれない。
劇団員の中でも男優が力を付けて来たので、次回は男の話をやろうということになった。
そこで理生さんが持って来たのは「八犬伝」だった。

この時は私が馬琴をやり、男の数も足りなかったので四犬伝くらいになったのだが、後に再演した時はしっかり八人揃えて上演している。
前回がアトリエ公演だったので、公演場所はアトリエ以外がいいということにでもなったのだろう。
もう一度イキのいい新人を開拓しようとの狙いもあったのかもしれない。
何故か早稲田の劇団こだまのアトリエで上演することが決まった。
もう一つ、この公演ではいつもとは違った事が試みられた。
それは理生さんが半分くらいのシーンを初演出したことだった。
理生さんは常々、私は劇団の座付き作者であって、劇団の主宰者じゃない、などと言って逃げていたけれど、本当は演出もやりたくて仕方がなかったんですよね?
稽古の現場に毎日やって来るのはもちろん、小道具の製作なども楽しそうにやっていましたよね?
そうそう、この時は初めて武藤さんが照明をやった公演でもあるんですよね?
劇団こだまのバラックのアトリエの真ん中に穴を掘って、照明を埋め込みましたっけ。
もちろん、終演後埋めましたけど、ツギハギは残ってしまいましたよね?
そんな微笑ましい現場がある一方、女優のMはこの公演の出演をやめる。
このあたりの時間軸が私の中でも今一つハッキリとしないのだが、この時既に少し精神的に疲弊していて、そのことが原因で出られなくなったと記憶している。
あれほど確固に見えた三角形の関係も、微妙に歪み初めていたのかもしれない。
劇団としても曲がり角にさしかかった公演だった。
 

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*番外公演1

*番外公演1
この頃の公演については、私の中の記憶と実際に残っているチラシ等の記録とで、微妙にズレがある。
「夢の浮橋」は私の想いとしては、女三部作の最終編なのだが、実際にはワークショップとなっている。
「八百屋の犬」は理生さんが演出を半分やったと記憶しているのに、チラシでは理生さんが作・演出となっている。
これが次回公演「さんせう太夫」になるともっと不可解で、理生さんはなんと舞台監督となっていて、台本が紀田栞(きだしおり)と冗談のような名前が載っている。
同じ作家と同じ演出で上演する不満を、名前とか名目とかを変えることで解消しようとしていたのかもしれない。
あるいは理生さんと演出のHとの関係が変質していて、それがチラシのクレジットにも微妙に影響していたとも言えるだろう。
そうした不安定さを抱えつつ、しかし劇団としての規模はどんどん膨らんで行き、一時期は劇団員が30人を越えた状態にまでなった。
こうなると毎日顔をつき合わせていても、一度もしゃべらなかった相手とかが出てきて、コミュニケーション上もあまりよくないのだった。
劇団公演が一時期のように頻繁にはできなくて、12月の「八百屋の犬」の後、翌年6月の「さんせう太夫」まで半年も間があいてしまった。
折角小さな公演もできるアトリエを持っているのだからと、その間を埋めるように私は「宗方駿一人芝居」をやることにした。
理生さんには2シーン分の台本を書いてもらって、その代わりに新人の女優5人を使う事になった。
理生さん、あの時もらった台本、今も大事にとってありますよ。
なんといっても、理生さんが私の為に書いてくれた台本のあれが最初で最後でしたもんね。
その後、40歳になったら「高瀬舟」を書いてくれると約束してくれたのに、結局果たしてはくれませんでしたもんね。

それはともかく、この一人芝居はいろんな役に私が化身するという、いってみればなんでもありの実験公演だった。
私は公演直前の1ヶ月をアトリエに泊まり込み、起きている時間はいつでも稽古できる状態で本番を迎えた。
劇団が軌道に乗るにつれ、私としても活動の領域を拡げたいとの野心を持った時期でもあったのだ。
そうそう、公演ではないけれど、友人たちと一緒に当時流行りだった自主映画を撮ったのも、この頃でした。
私はわずかばかりの資金を親戚から借りてきて、一丁前にプロデューサーと役者の両方を担当していた。
後に有名になる室井滋とか映画監督の渡邊孝好などと知り合ったのもこの頃だった。
相変わらず皆貧乏で、飲むお酒といえば、一番安い「さつま白波」か「トリス」だったが、人間だけはたくさん集まってきて、中には貴重な出会いもあったのだ。
一方、女優のMはその頃劇団を辞めると言い出していた。
辞めないように説得する為、Hと二人でMのアパートに行く。
しばらくは大人しく私達の話を聞いていたMだったが、突然立ち上がって台所に行くと、包丁を持ち出しHに向かって行くのだった。
あわてて止めに入り、なんとか食い止めはしたが、Hは手に傷を負った。
Mの気持ちを落ち着かせ、結局Mの辞意を翻すことをあきらめ、二人は帰ることにした。
その頃Hは、理生さんとの住処とは別に三畳間を借りていて、そこで手の治療をした。
「もう俺、疲れたよ。演出なんて誰がやっても同じだから、これからはおまえやってくれよ。」
なかなか止まらない血を見つめながら、気弱になったHは私にそう漏らした。
 

「さんせう太夫」の頃

理生さんと演出のHとの間で、どんな話し合いが行われたのかは知らないが、「八百屋の犬」で理生さんに演出を任せる代わりに、次回公演はHのやりたい芝居を理生さんが書くという事になっていたらしい。
「さんせう太夫」は既に天井桟敷で上演されていた「身毒丸」と同様に説教節の一つである。
いわゆる「安寿と厨子王」の姉弟の物語を軸に、「託す」ことと「裏切られる」ことの意味を問う作品を作ろうとした。
それは例えば絶対本命のハイセイコーが敗れる事であり、あるいは終戦の玉音放送である。
公演場所も「赤坂国際芸術家センター」という、当時の小劇場としては広い空間で、Hの意気込みも並々ならぬものがあった。
役者陣もそれによく答えたと思うし、なによりも理生さんが連れて来た元天井桟敷のスター「昭和精吾」の存在が大きかった。
もっとも昭和さんとしてみれば、もう半ば諦めていた演劇活動をこの公演で再開させた訳で、「墓場から引きずり起こされた」感覚だったらしい。
結局最近に至るまで昭和さんが演劇活動をしていたのも、この契機があったからなのだから、なんとも不思議なものである。
それはともかく、私達劇団員はまだ皆若かったから、少し年上の昭和さんの存在は、単に舞台の上だけでなく、日常生活の中でも大きな存在となっていた。
特に劇団の中堅どころの男優達は、まるで兄貴のように慕っていたし、演出やスタッフの信任も篤かった。
舞台上ではさんせう太夫を昭和さんが演じ、私は物語の狂言回し的な役割の琵琶法師をやった。
今考えれば恥ずかしいのだが、ニセモノの琵琶を実際にかき鳴らしながら、ウソのメロディーで説教節を謡った。
それでも琵琶の専門家に少しご教授してもらったおかげで、なんとなく様にはなったようだった。
昭和さんのさんせう太夫も良かったが、なんと言っても安寿と厨子王の二人の俳優の新鮮な演技が好評だった。

そんな充実した公演ではあったが、小屋入りの初日の仕込みの日に、ちょっとしたトラブルがあった。
前回書いた通り、この公演では舞台監督が岸田理生になっていて、いつも舞台監督をやるNは制作になっている。
しかし、実際には理生さんに仕込みの舞台監督などできるハズもなく、Nが代行してやるはずだった。
ところがその仕込みの当日にNが遅刻して来たのである。
仕込みの段取りなど何も知らない理生さんは、当然ながら仕込みなど仕切ることはできなくて、時間切れで仕込みを始める劇団員を前に狼狽するばかりだった。
Nとしてみれば舞台監督の理生さんのお手並み拝見くらいのつもりで遅れてきたのかもしれないが、理生さんの怒りは収まらず「仕込みに制作がいないんじゃあ、この公演はできない」とまで言い出す始末だった。
前回の自ら演出した公演と違って、今回は公演の現場からも疎外され、自分から望んだとは言え、慣れない舞台監督をやらなくてはならない。
そんな公演に対する不満が矛先を変えて、一気に吹き出た形となった。
充実した稽古現場の陰で、Hとの生活が既にどうしようもない局面を迎えていて、その苛立ちが表面化した事件だったとも言える。
そして、この公演の後、劇団は一気に解散の方向に動き出すのだが、この時点ではまだこの事件がその予兆だとは誰も考えていなかったのである。
 

さんせう太夫.jpg

​*番外公演2

幕切れは、いつもあっけない形でやってくる。
「さんせう太夫」を終えた私達は、公演の反省と今後の方針を話し合う為に、劇団総会を開いた。
ところが、この大事なミーティングに肝心の主宰者たるHが来なかったのだ。
理生さんは多分何故来ないかを知っていたと思うが、何も言わない。
劇団員のMが連絡を取る為に女優Mの家に向かう。
重苦しい雰囲気で待つ事30分。帰ってきたMはこう言った。
「あいつら、この大事な時に二人でビール飲んでやがった。俺は許せねえ!」
多分、この一言で劇団の解散は決まった。
Hは理生さんよりもMを取ったのだ。劇団と劇団員よりもMとの生活を取ったのだ。
その後、昭和さんが焼肉パーティーをやると言って、自分の家に劇団員全員を招き、どうしようもなくできてしまった劇団員とHとの仲を取り持とうとしたが、焼け石に水。
酔いが廻ったところで、劇団員の一人がHに殴りかかり、そのまま喧嘩に突入して、誰も収集できずに決裂した。
後は事後処理のみが残されていて、稽古場を借りる際に出し合った資金の返却をHが約束する話がつくと、すべては終わっていた。
こうして私達が最初に作った哥以劇場なる劇団は、ワークショップ、再演を含めて、わずか10回の公演で解体した。
その間、足掛け5年の月日が流れていた。

劇団解散のきっかけ自体はあっけないものだったが、私も理生さんも実はその前から解散を予期していたような気がする。
それが証拠に、最後の話し合いが終わった帰り道、その足で理生さん宅に寄り、「岸田理生事務所」の設立を決める。
私としては、理生さんとHと女優Mとの三角関係で劇団を解散したのでは、せっかく集まってきた劇団員がかわいそうだと思ったし、ほとんどが役者志望なのだから、事務所のような形でも構わないから一つに纏めて置きたかったのだ。
理生さんも二つ返事で了承したが、やはり主宰者になる事を嫌った為に、この集団の代表は私がする事になった。
まだ公演の予定は決まっていなかったが、旧劇団員のおよそ半分が、この新しい集団に参加する事になった。
哥以劇場のアトリエはHとMとが管理することになったので、私達は別に6畳間のアパートを事務所として借りた。
事務所の体裁を作る為に、役者一人一人のプロフィールも製作した。
そんな折、舞台監督をやっていたNが、森田童子のコンサートと昭和精吾の一人芝居のジョイントの話を持ってくる。
当時既に伝説のように語られていた森田童子と、同じく天井桟敷の昔のスターが劇場を共有するという、魅力的な企画だった。
この昭和さんの芝居の部分の演出を理生さんに申し出たのだった。
しかも音楽はJ・A・シーザーがやってくれるというし、ちょうど岸田理生事務所のメンバーも体が空いていたから、渡りに船だった。
会場は劇団こだまのアトリエで、およそマイナーの極みのような場所だったが、理生さんもシーザーも自由にやれるので楽しげだった。
私もこの時は裏方にまわったが、哥以劇場の終わりの頃には味わえなくなっていた、開放的な空気を吸って晴れやかな気持ちだった。
そんなこんなで、なんとか次の活動を始めることができ、半年後には「恋唄くづし 火学お七」の上演に漕ぎ付けたのだった。

「火学お七」の頃

哥以劇場が解散してすぐに岸田理生事務所を作ったものの、昭和さんの一人芝居の他には何の予定もなかった。
しかし、私達は翌年春の出直し公演を、ゆっくりとではあったが確実に企画し始めていた。
理生さんは既に次の芝居の構想は持っているようで、かなり早い段階から「お七」がやりたいと言っていた。
ドタキャン女優のTもいたし、雛涼子を始め中堅どころの女優たちも数人いた。
男優たちはこの新集団に対して、一歩引いて見ていたようだが、それでも何人かは参加表明をしていたし、昭和さんも協力を約束してくれていた。
問題はいなくなってしまった演出をどうするか、それからこの時は不参加を決めていたNの代わりに制作をどうするかであった。
悩んだ私は、文学座時代の同期で当時尊敬していたNさんに相談してみた。
事の成り行きを聞いたNさんは私にこう助言してくれた。
「おまえらみたいな小劇団で、演出をどうするかとか、制作を誰がやるかなんてテリトリーを考えること自体が間違ってるよ。おまえがやってもいいし、理生がやってもいいし、要はみんなで協力してやればいいんだよ。」
この言葉には私も眼からウロコが落ちる思いだった。
そして集団の代表を引き受けた関係もあって、次回公演では制作を受け持ち、裏方として理生さんを支えることにした。
理生さんは理生さんで、自分で演出を引き受ける準備を着々と進めていた。
照明の武藤さんに全面協力を要請するとともに、照明効果が期待できるタッパ(舞台天井までの高さ)のある小屋を探した。
パルコの捨子物語の時にも協力してもらった和田さんに装置をお願いした。
また、J.A.シーザーにいくつかの曲を使う了承を得てもいた。

そしてアトリエ・フォンテーヌという、当時の小劇場としては画期的なタッパのある小屋が見つかり、いよいよ公演ができる事になったのだ。
私も慣れない制作の仕事だったが、チラシ作りから稽古場借り、役者陣の管理からチケットやお金の管理まで、最大限のことをやった。
そうそう、これは実現できなかったけど、女優陣に厚味を持たせる為に、室井滋にも出てもらう予定で交渉していたんですよね。
結局彼女に別の抜けられない仕事が入ってしまって、別の女優さんに決まったのですが、チラシには室井さんの名前が載ってますもんね。
とにかく初めての経験だったので、いろんなトラブルが発生した。
装置は事務所の横の広場で夜作ったし、シーザーの音楽はあったが、音響を考えていなくて、結局武藤さんに照明と兼任してもらった。
演出的にも制作的にも、決して満足の行く公演ではなかったが、仕込みの夜徹夜で照明を作り、翌朝段取りを決め、ゲネプロもそこそこに本番初日に突入した。
そんなギリギリの公演だったが、不思議なものでなんとか形になり、その初日の公演を見た「ザ・スズナリ」の酒井プロデューサーから、翌年のファスティバルへの誘いを受ける。
公演を見に来た寺山さんも驚いて「いやー、君には次から次へと救ってくれる人が現われるんだねー。」と感心されたんですよね?
寺山さんとしては、一つの劇団を解散させてしまって、公演もハチャメチャになって落ち込んでいる理生さんを想像していたんでしょうね。
ところがいざ来て見ると、もう劇団の解散からも前の男との失恋からも、すっかり立ち直っている理生さんがいて、しかも力のある助っ人(この時は多分武藤さんの事ですよね?)に支えられている。
実はこの年の夏、ジアンジアンで行われる「寺山修司作品連続上演」の企画に参加することになっていたものの、寺山さんとしては愛弟子のみじめな姿は晒したくないと思っていたのかもしれませんね。
そんな寺山さんの杞憂も何処吹く風で、私達は自分達でも意識しないうちに、次の展開へ向けて着々と駒を進めていたのだった。

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「花札伝綺」の頃

「火学お七」の稽古にまだ入っていない2月くらいだったと思う。
渋谷ジアンジアンの高嶋さんから連絡があって、8月にやる「寺山修司作品連続上演」に参加しないかといわれた。
理生さんと二人でジアンジアンの事務所に行くと、既に参加することは(寺山さんとの間で)決まっていて、演目を何にするかという話になった。
理生さんはまだ天井桟敷の一員でもあったので、最近の作品はできないと言った。
「私がまだ観客だった頃見た作品で花札伝綺と言う作品があって、あれならやってみたいと思う。」と答えた。
当時はまだジアンジアンと言えば、独自の路線で大人のコンサートを中心に開いていて、あまり芝居はやっていなかった。
しかし、小劇場なのに知名度が高く、その入口には毎夜大勢の観客が並んでいて、誰もが一度は入ってみたいと思うような場所だった。
貸し劇場としては高すぎて使用もできず、すべてが提携公演の形で劇場と主催者とで入場料を折半するのが条件だった。
入場料の折半などと言うと、べらぼうな小屋代のようだが、なにしろフリーのお客さんがワンサカやってくるのだ。
だから、いつものような手打ちの公演と違って、チケットの販売をノルマにしなくても充分観客が集まるのが利点だった。
その代わり、毎日興行が行われている事が基本だった為に、前日入りの徹夜仕込み、当日ゲネで初日を迎えるという、かなりの強行軍を強いられた。
演出の経験も少ない理生さんだったし、劇団としてのキャリアもない私達にとっては、かなりの冒険に見えたに違いない。

私達もそれは充分承知していた。
だからまず、制作を知り合いの照明会社に依頼して公演の外枠を固め、次に演出補佐を和田さんにお願いした。
和田さんは既に自ら「楽天団」と言う名の劇団を作って7年くらい経っていたが、オリジナルの作品がなかなか書けずに、年一回くらいしか劇団公演が打てない状態でいた。
そこで私達が一石二鳥を狙って、もし可能ならば楽天団のメンバーも丸ごと協力がお願いできないかと聞くと、和田さんもその方が劇団員の為にもありがたいと言う。
それから天井桟敷からも牧野公昭を助っ人に呼び、一挙に倍近くの役者たちによって次回公演ができる事になった。
当然、照明も制作する会社で引き受けてくれると言うし、舞台監督もNがこの公演から参加してくれる事になった。
おかげで私もこの回からは役者として参加できることになったのだが、まだまだトラブルが多くて気を抜く事はできなかった。
稽古場には寺山さんも心配して時々現われ、役者たちに緊張が走る。
役者が多い分パワーも増すけど、役者同士のトラブルも増える。
そして極めつけは仕込みの真っ最中に起こった。
制作を引き受けてくれた会社の社長は、もちろん私達の劇団に理解があったし照明レンタル等の協力も惜しまなかった。
しかし、一つ間違えてしまったのは照明のプランナーの人選だった。
既に武藤さんと言う才能に出会ってしまった理生さんとしては、他のプランナーの照明では我慢できなくて、仕込みの当日に武藤さんを連れて来てしまったのだ。
当たり前だが、これには社長から任されてやって来たプランナーは腹をたて、「俺を選ぶか武藤さんを選ぶかどっちかにしてくれ!」と喧嘩腰で話す。
ところが、ここで喧嘩をすれば制作してくれた会社の社長の面目を潰す事は承知の上で、この喧嘩を理生さんは買うのだった。
おかげで持ち込んだ機材をすべて撤収されて、夜中の3時から改めて劇場にある機材だけで照明を作り始める。
翌朝、何も知らずにやって来たほとんどの役者は、時間がなくなってゲネプロができなくなった旨を知らされるのみだった。
まるで花札を切るように鉄火場の姉御となった理生さんは、この時一つの伝説を作り上げたのだった。
もちろん、「内容の為には人間関係を壊す事もある」と言う、あまり芳しくない類いの醜聞を伴うものでもあったのだが…。

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「ハノーヴァの肉屋」の頃

仕込みのトラブルはあったものの、「花札伝綺」は初日が開くと予想以上の盛況だった。
寺山作品だったことや公演場所がジアンジアンだったせいもあるが、何よりも二つの劇団が力を併せて上演したのが一番大きな原因だった。
「楽天団」のメンバーにとっては久々の公演だったし、岸田理生事務所の方も前回よりも参加者が多くて、しかも二つの劇団員が互いに刺激しあいライバル心も持ってチケットを売りあったのが良かったのだろう。
結局この公演ではノルマ制を取らなかったのにも関わらず、赤字にならずに済んだ。
これに気をよくした私は、以後劇団員にノルマを課すことをやめた。
「花札伝綺」はこうして興行としては成功したが、内容は今一つだったと思う。
それに公演が終われば、二つの劇団はやはりまた二つに別れる訳で、相変わらず弱小劇団の状況は何も変らない。
幸い前回公演の「火学お七」で翌年3月にザ・スズナリで行われるフェスティバルに参加することになっていて、その時はまた「楽天団」に全面協力をお願いする話になっていた。
それにしても半年以上も時間がある。
そこで、理生さんは和田さんにこんな話を持ちかけた。
「花札伝綺」では和田さんと「楽天団」が全面協力してくれたので、今度は是非「楽天団」の公演に劇団として全面協力をしたい。
作品も和田さんが望む内容の脚本を書くので、そのお話をしたい。
そんな相談話の中で、この「ハノーヴァの肉屋」の構想は生まれた。

和田さんはシノプシスの段階でも、脚本化されてからも、自分の意見を言い、それに刺激を受けて理生さんも書き直したりした。
つまりこの「ハノーヴァの肉屋」は理生さんが和田さんに捧げた作品だったともいえるし、二人の共同作業で作り上げた作品だったとも言える。
公演場所は「楽天団」の本拠地でもある「中野スタジオあくとれ」。
公演をする同じ場所で稽古ができ、一つ一つ試しながら作品を作れる、とても恵まれた環境の中での作業だった。
今回はさすがに「花札伝綺」の時のように観客は多くなかったが、作品作りと言う意味では二つの劇団の劇団員が心を一つにでき、公演の成果もかなり優れた作品となった。
何よりも和田さんが役者全員の意欲を持たせ、信頼を獲得した事が大きかったと思う。
おかげでまだ天井桟敷などでの活動も続けていた理生さんも、その間、安心して役者を預けておけた。
つまり和田喜夫と言う演出家と岸田理生と言う劇作家が、それぞれの劇団員も含めてとても幸せに出会い、自然に共同作業ができるようになった、その最初の公演だったと言っても過言ではない。
私はといえば、その二人を出会わせた張本人として、まさに「してやったり」という想いだった。
この公演でも制作雑務は受け持ったが、制作母体は「楽天団」だったこともあり、役者として和田さんの演出を存分に楽しんだ。
照明こそ武藤さんではなかったものの、舞台監督は引き続きNがやってくれた。
そしてここに、後に設立する「岸田事務所+楽天団」のほとんどすべてのメンバーが既に集まっていたのだった。
 

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「火学お七」の頃2

「ハノーヴァの肉屋」で「花札伝綺」の義理を返した私達は、次の公演「火学お七」をどういう風にやろうかと話し合った。
「花札伝綺」は岸田理生事務所の公演として行われたし、「ハノーヴァの肉屋」は楽天団の公演という形で行われた。
そこで次回公演の「火学お七」では二つの劇団の合同公演として「岸田事務所+楽天団」と言う名前でやることになった。
実質的にはほぼ同じメンバーによる公演だったが、この名前を使うことで、二つの劇団の対等な合同公演として行うことになったのだ。
実はこの頃、次の夏に行われる「寺山修司作品連続上演」の企画に既に誘われていて、理生さんは「天井桟敷」の旗揚げ公演だった「青森県のせむし男」をやる事になっていた。
そしてその公演も、「岸田事務所+楽天団」の合同公演としてやろうということになった。
こうして、ある意味では前途洋洋としたスケジュールが埋まっていたし、二つの劇団員同士の交流もだんだんと深いものになっていった。

「火学お七」でも理生さんは、そんな二つの劇団の合同公演に併せて、台本を大幅に書き直し、芝居の内容よりも劇団の台所事情に気を遣っていたように思われる。
再演ということで、いちおう演出は和田喜夫と岸田理生の併記がされているが、理生さんとしては台本の書き直しの作業の中で、そのほとんどの想いを込めたつもりなのか、実際の演出は和田さんに任せきりであった。
そういえば、この連載のトップページに載っている理生さんの写真、あれはこの頃撮影されたものだったんですね。
ザ・スズナリの空間内をマッチの火で覆い尽くし、観客を火の魔力に引き付ける物語を、この写真でもイメージしていたんですね。
それから、この公演では二つの言葉遣いを微妙に変更してる。
一つはタイトルを「火学お七」から「火學お七」に変更している事。
何故そう変更したのか私にはハッキリとした記憶がないのだが、公演のチラシを作る時点でタイトルのインパクトなどを考えて、このように変更されたのだと思う。
もう一つは劇団名の岸田理生事務所を岸田事務所と表記した事。
岸田理生事務所の名前自体、「つかこうへい事務所」からの連想でほとんど仮のように付けたものだったし、既に通称では「岸田事務所」と呼ばれていた。
それになによりも「岸田理生事務所+楽天団」とすると長くなりすぎたからでもあった。
こうして「岸田事務所+楽天団」の名前は、この後長く使われることとなるのだが、まるで岸田事務所と言う名のプロダクションと楽天団と言う名の劇団が伴に存在しているようで、私としてはお気に入りだった。
舞台監督のNは劇場に川を持ち込み、裸火の処理と対比を考えて装置を作る。
照明は初演との関係で武藤さんが担当し、前回同様エンディングのバックライトを決める。
役者陣は和田さんの演出のもと、お互いに対抗意識を剥き出しにして演じる。
満員御礼で迎えた初日、寺山さんが見に来たが、かなり体がつらそうで、横になってないと見られないとのことで、調光室の中で横になって見ていただく。
「破壊だけではダメなんだな!」
これが見終わった時の寺山さんの言葉だった。
そして、これが寺山さんが私達の芝居に対して残してくれた最後の言葉ともなった。
つまりこの時点で私達は、寺山さんから破壊の後の構築を託されたとも言えるのである。
 

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「青森県のせむし男」の頃

一つの劇団が大きくなる時、必ずターニングポイントとなるような作品がある。
そしてそれにはたいていの場合、誰かの死が密接に関連している。
ザ・スズナリでの「火學お七」を見にいらした寺山さんは、途中何度も横になりながらでないと見られない状態だった。
それでも、その後に行われたドイツ映画特集のファスビンダーとの対談の時など、普通に喋っていたし、休憩時間にトイレで偶然会った私に向かっても「おや、久しぶり!」などと声をかけて下さり、それが私が会う最後になるなどとは、とても想像できないくらいに元気そうだった。
だからこの「青森県のせむし男」も、当然寺山さんは見てくれるものと思っていた。
しかし、寺山さんを蝕んでいた病魔の進行は早く、まだ稽古にも入ってない5月、帰らぬ人となってしまった。
理生さんは病院で最後を看取り、茫然とした状態のままで通夜と告別式に出席していた。
同じように為すすべもなく呆然としている天井桟敷の劇団員がいて、私たちの劇団員はお通夜に出す精進落としの料理を作る係りを受け持った。
しかし、寺山さんに直接指導を受けたことはなかったとは言え、その影響は計り知れなくて、私たちとしてもも同様にショックを受けていた。
なによりも、理生さんの心情が思いやられ、もうこれでお芝居はやらないと言い出すのではないかと危惧された。
後に理生さんに聞いたところでは、この時、鈴木忠志さんから電話が入り「芝居、やめるなよ!」と励まされたのが嬉しかったと言う。
とりあえず気持ちが落ち着いた頃に、打ち合わせの為に理生さんと会った。
まだなかなか気持ちの整理はついていないようだったが、理生さんは気丈にも次回の公演の構想について語り始めた。
それは寺山さんがまだ生きていた頃に既にあった構想らしかった。
「寺山さんが『ロープ』と言う作品をやろうとしていたので、私は『糸地獄』って作品をやろうと思うの。」
「私も寺山さんの歳までもうあまり長くないから、いつ死んでもおかしくないんだよ。」
そんな事をつぶやくくらいで、まだ決して万全の状態ではなかったが、理生さんは「青森県のせむし男」を全面的に書き直し、寺山さんへの想いをその作品に込めた。
私たち劇団員も、痛いくらいにその心情を感じたし、それぞれに亡くなった寺山さんへの想いを込めて演技をした。
期せずしてして実質的には追悼公演になってしまったが、私たちはそのチラシに「追悼」の文字をあえて入れなかった。
寺山さんの死を商売の道具に使うようで嫌だったのだ。
しかし観客はそんなことを百も承知の上で、本番は毎回超満員の盛況だった。
そしてその舞台成果も評判が良く、その年のベストテンに名前を挙げる評論家が多数いたくらいである。
これはこの世のことならず、死出の山路のすそ野なる、さいの河原のものがたり。
そんなおどろおどろしいテーマ曲で始まるお芝居は、女優陣はみな半眼でめくらの進行役を引き受け、男優もほとんどの人間が髪の毛を剃り落とし、フンドシ一丁の全身白塗りで舞台に立った。
そして「青森県のせむし男」を寺山さん自身に見立て、一人の少女に理生さんの心情を語らせたのである。
「青森県のせむし男を殺したのは奴婢たちです。…あの、あたしの思い出を全部かためて出来たこぶの、青森県のせむし男は、もういないのです。」
今考えれば、それは理生さんの寺山さんへの鎮魂歌であり、一人でも演劇を続けて行くという宣言でもあったのですね。

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「青森県のせむし男」の頃2

「青森県のせむし男」は客の入りも、その評判も上々であったが、その千秋楽の日に私たちはジアンジアンのオーナー高嶋さんに呼び出された。
「実はこの11月に沖縄ジアンジアンでも寺山特集をやろうと思うんだけど、それに参加してもらえないだろうか?」と言うのである。
もちろん、私たちとしては春くらいに「糸地獄」をやる事以外には、今後の予定はなにも決まってなかったし、なによりも旅公演といういままで経験した事がない企画に参加させてもらえるということでワクワクしてしまった。
なんでも大阪はオレンジルームと言うホールが押さえられていて、那覇、大阪と空路で移動して二箇所で公演ができるのだと言う。
しかも、ギャラこそでないものの、宿泊費と食費も出してくれると言う、願ってもないお誘いだった。
当然ジアンジアンとしては大赤字の企画だっただろうが、私たちとしてはその分始めての旅公演なのにも関わらず、まるで大名旅行のような条件だった。
ただ既に一度公演として出来上がったものを、三ヵ月後にもう一度作る訳で、どの程度の稽古が必要なのか途惑うところではあった。
しかしここでも二つの劇団の合同公演の強みが現われ、お互いを刺激しあっていた為に、再演にしては少し長い稽古期間だったにも関わらず、より充実した舞台に向けて邁進できたようだ。

初めて行く沖縄は何もかもが珍しく、驚きの連続だった。
学生時代から芝居ばかりやってきた私にとっては、飛行機に乗る事じたいが初体験だったし、観光旅行と違って事前にその土地の情報を調べずに行ったのが良かったのかもしれない。
空港から劇場までのバスから見た基地の壁。
劇場に到着した時の現地スタッフのもどかしいくらいにゆったりした働きぶり。
お昼の弁当を求めて地元の市場に行き、豚の頭が並んでいた時の驚き。
初日の夜に、高嶋さんに招待されて連れて行ってもらった、沖縄料理の店の雰囲気と料理と焼酎のおいしさ。
沖縄でしか味わえないオリオンビール、沖縄タバコのハイトーン。
ゴーヤチャンプルやシークヮーサー、ソーキソバ、それに勇気を出して食べたヤギ料理。
そして何よりも、その暖かい陽気と南国特有の時間の流れ。
もちろんほとんどの時間は劇場にいたし、ビーチに出かける時間もなかったが、身も心も癒されて気持ちが弛緩してゆくのが心地よかった。
そして大阪。
いきなりの寒い夜。
夕食に入った料理店の店員のせわしなさとあわただしさ。
宿泊がお寺の境内だったので、近所の銭湯に行ったのだが、そこで始めて入った電気風呂。
その刺激の激しさに身も心も凍りついたようで、思わずおみやげに買って来た沖縄焼酎あわもりを煽っていた。
何もかもが沖縄と落差があり、同じ日本だとは思えなかったのだ。
公演の合間ではあるが、そんな土地土地の匂いや味を感じ、しかもそれを二つの劇団員皆で共有した事が大きな収穫だった。
もちろん公演もそれなりに成功し、それぞれの場所でのお客さんの反応も楽しめた。
そうして、この幸せな旅公演が終わる頃、どちらともなく正式に一緒の劇団になろうという話が始まったのである。
それはまるで、二つの劇団の婚前旅行のようだったとも言える。

「宵待草」の頃

こうして私たち二つの劇団は正式に合併し、翌年春の「糸地獄」からスタートすることになった。
劇団名はなんとも気の効かない名前で、「岸田事務所+楽天団」。つまりいままでの呼称をそのまま使ったわけである。
翌年の新年会で外部にも正式にその宣言をし、以後新年会は劇団の年中行事となった。
しかし何事にも慎重な私たちは、浮かれてばかりはいなかった。
まず理生さんは劇団創立メンバーの女優陣一人一人に、身の上話と言うモノローグを書いた。
結果的に、この一人台詞が「糸地獄」の中の娼婦の身の上話となった。
それから旗揚げ公演となる「糸地獄」の前に、ワークショップとして劇団女優陣の最年長だったTの為に「宵待草」と言う作品を書いた。
一人の「待つ女」を描いたこの作品は、その後何度も再演を重ねることになるのだが、この時点では本公演「糸地獄」の助走と捉えられていた。
ゆえに、もともと数人しか登場人物がないのに、その冒頭とラストに劇団員の役者全員を登場させ、まるで総力戦の様相を呈していた。
企画の段階では、ほんの小さな公演になると思っていた為に、わずか2日間3ステージしか上演しなかったので、もうスタジオあくとれは毎回超満員だった。
「糸地獄」と同様に、劇団の創立時の作品だったし、少人数でも公演が可能だということもあり、その後この劇団の区切りの場面で何度も上演されることになる。

私たちは既に一度劇団を旗揚げ、それを解散しているので、今回はかなり慎重に検討し、いろんな事を話し合った上で劇団を作ったつもりだった。
まず劇団名と同時に問題となったのが、主宰者である。
これは二つの劇団が合併したのだから共同主宰にせざるをえなかった。
そこで私たちは二人の役割分担をハッキリとさせ、お互いに了解しておくことにした。
一つ、基本的に作・岸田理生、演出・和田喜夫で行く事。
一つ、岸田が外部関係の顔となり、和田は内部の取り纏めを担当する事。
一つ、二つの劇団の劇団員は、そのすべてにおいて平等とし、民主主義の原則で運営する事。
但し、これは私だけの心づもりとして、岸田及び和田とその他の劇団員との関係は上下のヒエラルキーを明確につける事。
これらは、言って見ればすべて二枚舌で、二人の主宰者が別々の事を言う可能性があり、劇団の運営は民主主義で、作品作りは独裁制で行うことを意味する。
私としては岸田も主宰者にする事で、逃げられなくしたかったし、一人の主宰者で運営するよりも劇団の足腰に粘りが出ると思っていた。
実際10年この劇団は続いたわけだが、その間いろいろな形で、この二枚舌が奏功する場面に出くわすことになる。
しかし、この関係を維持する為には、二人の主宰者が常に意志の疎通をはかっている必要があり、合議制の体裁を取る為にも運営委員会なるものを開く必要があった。
二人の意志の疎通に関しては、徐々にお互い分っているものとの誤解が生じ、いろいろな問題を孕んでくることになる。
運営委員会についても、当初は主宰者二人と私と舞台監督のN、そして役者のOとTで話し合って決めていたが、結局徐々に形骸化してしまい、Nが退団すると劇団のスケジュールのほとんどは私が企画し、それを二人の主宰者にそれぞれ相談する形となってしまった。
当時としては最善の劇団運営のつもりでいたが、今となっては初めから無理のある共同主宰だったのかも知れないと思う。
しかし、そうしてさまざまな問題を孕んではいたが、それらに目を瞑っていても構わない程に、旗揚げする時期の劇団には勢いがあったと言える。
「宵待草」はその舞台成果も興行成績も、また劇団員同士の人間関係も、どれを取っても最高の公演結果だった。
終演後スタジオあくとれで飲むお酒は、前途洋洋たる劇団の未来を予感させ、心地よい酔いを感じながら夜が更けるまで続けられた。

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「糸地獄」の頃

そして「糸地獄」である。
ご存知のように、この作品は翌年「岸田戯曲賞」を取る作品だ。
理生さんの生涯を通しても、一番の代表作だし、この劇団にとっても、もちろん代表作となる、その初演である。
前の年に企画していた段階では、まだ二つの劇団は合併していなかったし、どのような公演形態になるのか未定だった。
その為、劇場も「火学お七」で気に入ったアトリエ・フォンテーヌを4日間しか押さえていなかった。
これでは折角の第1回公演なのに、少し寂しい。
しかも前回のワークショップ「宵待草」では、劇場に入りきらないで帰してしまったお客さんが多数いた。
というわけで、急遽フォンテーヌでの公演の一週間後にスタジオあくとれでも公演することとなった。
本当はこの「糸地獄」、戯曲の構造上、二階建てのセットが必要で、フォンテーヌのように劇場のタッパが高い場所でしか上演が不可能なのだ。
今考えても不思議に思うのだが、この不可能を可能にしてしまうところが新劇団の持つ熱気なのかもしれない。
登場人物も男優こそ4人くらいいれば可能だが、女優は一年12ヶ月の花札の名前が付けられた女性12人プラスやって来る女1人で13人が必要だ。
その為、知り合いの劇団に打診して女優を借りたり、新たに募集をかけて新人を使ったりした。
小道具もその13人が廻す糸車が13台、衣装も赤い襦袢と黒い喪服、それに白い着物がそれぞれ必要なので13枚づつ。
女優達はこれらを都内の古道具屋と古着屋で探して歩いた。
男優達は二階建てのセットを稽古の前と後に製作し、あげくは足りない分の糸車まで作ってしまった。
この糸車を公演中どこに置いておくかがまた難問で、特にあくとれでは糸車を持って、舞台裏を通り抜けるのも一苦労だった。
こうした雑務に加えて、当然ながら芝居の内容や演技の悩み、それからこの大人数での人間関係がある。
とにかくこれらの一つ一つに大変な苦労が伴って、劇団員一同のそのストレスたるや相当なものだったと思う。

それにしても理生さん!
あなたはどうしてこんなにしっかりとした物語を思いついたんですか?
たぶん無意識だったのかもしれないけれど、それまでの作品に比べても明確な論理と構造に裏打ちされたドラマは、まさに代表作の名に恥じない秀逸な作品だと思う。
これもまた新しい劇団の持つ熱気に押されてのものだったのでしょうか?
はたまた、亡き寺山さんからの見えない「気」の力が及んでいたのでしょうか?
とにかく、その脚本は最高のエンターテインメントとして完成していたし、私たちもそれをしっかりと受け止めて上演に持っていった。
そして、その舞台成果は、それまでの苦労を吹き飛ばすくらいのもので、さまざまなメディアによるその年の最高傑作の舞台との評価と、翌年の戯曲賞受賞は、その後の劇団員の活動に大きな自信となったのだった。
また、数年後に出版されたフォーカス誌の中では、80年代の舞台ベスト5にも選ばれ、新進劇団としての位置を不動のものとしたのだ。
しかし、まるで熱にうなされたように、勢いで上演してしまった為に、その現場に現われたたくさんの問題点には、目をつぶってしまう形となった。
そうして公演が終わると、それまで「岸田事務所」を支えてきた、女優のTが退団する。
劇団というものは、どうもその最初の段階で、既にすべての問題点を含有しているものらしい。
そんなことを予感させるTの退団であった。
もちろん、それによってこの勢いのある劇団の前途に影が現われた訳ではなかったし、9月には次回のワークショップが、12月には次回の新作が予定されていた。
波乱を孕みつつ、しかし前途洋洋の航海のような新劇団の旗揚げであった。

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「男色大艦」の頃

「糸地獄」は女達の物語である。
糸屋の主人に象徴される男達に支配されて来た、女達の叛乱のドラマだ。
もちろん登場人物としての男優達の役割は、その分責任重大だし、13人の女優に対してわずか5人の男優なのだから、幸せな現場だとも言える。
しかし、実情はその劇の内容の事もともかく、セット作りなどで、男達はドロドロになって仕事をしなくてはならなかった。
当然、そこで不満も出てくる。
そんな事を見越して、次回のワークショップでは男優のみが登場するお芝居を作ることになった。
タイトルは「男色大艦」、なんしょくおおかがみと読む。
このワークショップも「宵待草」の時と同様に、次回公演「吸血鬼」の助走と捉えられていたので、テーマも吸血鬼である。
後に理生さんは「吸血論考」を書くことになる程に、このテーマは得意分野なのである。
まだ暑い9月の初めの公演で、その頃はクーラーの設備もないあくとれで、汗まみれになった男達が黒の水着一丁で絡み合う、いともおぞましいお芝居だった。
何を勘違いしたのか、一見してオカマと分る女性(?)たちも、観劇して行った。
今でこそ、皆太ってしまったが、この頃はまだ若く、決して筋肉質ではないものの、極限まで肉を殺ぎ落とした肉体を晒して、精一杯の男芝居をやったつもりだった。
女優陣も、ある意味で「糸地獄」の息詰まるような現場から開放されて、生き生きと受付だの雑用だのを引き受けてくれていた。

時系列が少し前に戻るが、「宵待草」の少し前、つまりまだ劇団が合併する前の頃の話だ。
元早稲田小劇場の千賀ゆう子さんと言う女優さんに、理生さんは「桜の森の満開の下」と言うタイトルの1人芝居を書き下ろしていた。
言わずと知れた坂口安吾の名作を戯曲化したもので、その後、千賀さんの努力によっておびただしい数の上演がされ、多分岸田戯曲の中で最も多く上演された作品となる。
千賀さんとのそうした付き合いから、次回の「吸血鬼」には千賀さんに客演をお願いしていて、その千賀さんと一緒に舞台を作っていた丹下一さんも、この「男色大艦」に客演していた。
その頃中野にあった私の自宅兼事務所のアパートの一室で、その客演の丹下さんを招いて宴会を開いたことがあった。
わずか6畳一間の狭いアパートに10数人の劇団員が集まって、私が作る鉄火場のようなおおざっぱな料理を肴に飲んだ。
この頃は昼間稽古で夜バイトの生活だったので、毎日稽古の後に飲むわけにはいかなかったが、こうして客演や外部のスタッフが稽古場に来た日には、なんとかバイトの都合をつけて一緒に飲んだものである。
稽古場での激しい稽古の後に飲むビールは爽快で、まだ作りたてで意欲満々の劇団員は非常に健康的なお酒を飲んでいたように思う。
宴もたけなわになった頃、私は丹下さんにこんな話をした。
「理生さんと付き合うようになったのは、実は1人の作家と死ぬまで付き合う経験をしたかったからなんだ。」
「理生さんは、寺山さんが死んだ時、私ももう10年は生きられないと言ったから、その頃までは付き合うつもり。」
などなど。
今思うとかなり身勝手な会話だったが、結局10年後ではなかったものの、理生さんが死ぬまで付き合うと言う言葉通りになってしまった。
その話に影響されたのかどうかは分らないが、丹下さんもその後10年以上にわたって千賀さんと付き合い、周りにこう漏らしていた。
「僕は千賀さんにとって、理生さんのところの宗方さんのようなモンです。」と。
不思議なことに、この新劇団は、こうして外部からの参加者を常に巻き込むことによって、新しい血を導入し、周りに菌を撒き散らしていたとも言える。
その姿はまるで吸血鬼に倣ったように見えたかもしれない。
 

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「吸血鬼」の頃

さて、その吸血鬼である。
新しい劇団を設立させてから、ワークショップも含めてこの年4本目の作品だ。
念願だった「糸地獄」も出版され、正に飛ぶ鳥を落とす勢いの中での公演だった。
そのサブタイトル「血こそ命なればなり」は、「糸地獄」の時の「ここはどこ?私は誰?」と同様に、劇団員やその関係者の間で流行り文句となった。
前回書いたようにこの公演には千賀ゆう子さんが参加した。
自分達よりも10歳くらい年上の千賀さんの存在は、劇団の女優たちにとってとても大きなものだった。
早稲田小劇場を退団してからも1人で活動を続けている姿は、ちょうど30歳を迎え将来に不安を感じていた劇団員にとって、まだまだ続けていけると言う自信のようなものを与えてくれた。
この公演では他にもWと言う早稲田の劇研関係の男優も参加していたし、こうした形で常に外部からの出演をお願いすることで、ともすれば収束しがちな劇団の空気を風通しの良いものにしておきたかったのだ。

今回はお得意のマッチに代わり、100円ライターの石と金槌を使った火花に観客は驚いたことだろう。
完全暗転の中で、ガスを抜いて発火しないようにした100円ライターを擦り、同時に金属板に金槌を打ちつけると、まるでその打ち付けられた金属が発火しているように火花が散るのである。
「赤血球!」「ヘモグロビン!」などなど、血液に関する単語を叫びながら火花を散らせる。
理生さんは天井桟敷時代に「盲人書簡」と言う演劇を作った経験があり、その経験がこうした手法を生んでいたのだ。
ある閉ざされた村に吸血鬼の姉妹が住んでいて、そこに1人の男の旅人が現われるところから、その村と姉妹に変化が現われる。
村人達が閉ざされていることを、私たちは何組かの夫婦ごとに切り穴に入っていることで現わした。
これはベケットとかアラバールの演劇からの影響を演出の和田が受けていたせいかもしれない。
もちろん、その姿は棺桶の蓋を開いて現われるゾンビのようにも見えたに違いない。
「毒子」「薬子」と言う名の二人の吸血姉妹は、まるで1人の人間のように一緒で、レズビアンのように絡み合い慰めあっている。
そこに避雷針売りと言う、科学の申し子のような他者が現われ、姉妹はその男に同時に恋をするのだ。
そして最後に姉妹は気付くのだ。自分の本当の敵はもう1人の自分なのだと。
この姉妹の姿は、相思相愛の末に一緒になった二つの劇団が、外部の他者に触れる事で徐々にその関係が崩れていく姿を予見しているとも言える。
実際、この後劇団はどんどん外部の人材を巻き込み、また劇団員も外部に対して開いていき、空気が淀む事がないようにしようとした。
しかし、開けば開く程、実は外部との落差に気付くことになり、閉ざされた劇団の中で互いの血を舐めあっていた頃より、劇団としての纏まりはなくなるのだ。
こうして今考えると不思議なのだが、そんな劇団の将来を理生さんは既にこの時点で見越していたかのような、この「吸血鬼」の物語の展開であった。
もちろん実際には、こうした物語とは関係なく、劇団も劇団員もほとんど将来への不安を感じずに劇団活動を謳歌していたと言える。
そんな一年が終わり、翌年の新年会の前に、「岸田戯曲賞受賞」の知らせが届く。
ずっと待ち望んでいた受賞だったが、その一報をバイト先で聞いた私は、ひどく冷静だった。
もちろん、長年理生さんと一緒にやって来た、その努力が報われたのだから、泣きたいくらいに嬉しかった。
しかし、何故かこの時、これでもうすべてが終わったかのような虚脱感にも同時に襲われたのだった。
年間4本の公演は本数としても多かったが、それ以上に、劇団の喜びと不安をぎゅっと凝縮したような最初の一年だったのである。
 

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「ハノーヴァの肉屋」の頃2

その年の岸田戯曲賞は、理生さんと川村毅との争いだったようだ。
山崎哲、竹内銃一郎、北村想と続いてきて、この年取れなければ、年齢からいって、理生さんの受賞はしばらく見合わされてしまうところだったと思う。
幸いにも川村はまだあまりに若く、もう一年待とうということで、理生さんの単独受賞となったようだ。
この戯曲賞は戯曲部門での芥川賞といった意味合いがあり、今後有望な新人劇作家に贈られるものだ。
普通、この賞を取った劇作家のいる劇団は、観客動員数が激増し、それまで800人も来れば上出来だった劇団が3000人に増えると噂された。
そして、この3000人と言う数字は、小劇場での採算が取れるギリギリのラインであった。
実際、商売のことを考えれば受賞作の「糸地獄」の再演をすべきだっただろうし、そうすれば3000人の観客も夢ではなかったかもしれない。
しかし、私たちは、この観客を増やす好機に、アトリエでの長期公演を選んだ。
しかも「糸地獄」とは正反対のような内容の「ハノーヴァの肉屋」の再演を、三週間もの間小さなアトリエで地道にやろうというのだ。
観客の急激な増加よりも、劇団員同士の関係をより緊密にすることと、ステージ数を増やすことで役者の力量アップを目指したのである。
その為いままで800人だった観客動員が、1500人に増えた程度で終わってしまった。

結局その後も劇団の観客動員数は1000人前後で推移するのだから、結局この受賞は劇団の集客としては微増に留まった。
しかし、この受賞とそれに伴うさまざまなメディアの取材記事によって、理生さんにはたくさんの仕事の要請があったようだ。
もちろん、それ以前にも映画やテレビのシナリオは書いていたが、この受賞を機に依頼が増えたのである。
そして、その関係で翌年からは劇団員も少しずつ、テレビの二時間ドラマなどに出演できるようになった。
それから、いわゆる芸能人と呼ばれる人たちとの付き合いも増え、実際にこの「ハノーヴァの肉屋」の公演中に清水紘治さんが見に来て、その清水さんの紹介で次回の公演場所となるベニサンピットを知ることになる。
こうして一方ではアトリエ公演を地道にやることで、閉鎖的な劇団経営をし、もう一方では外部との交流を増やして開放的な劇団経営をする。
つまり、その両方のバランスを取ることで、決して閉塞することも浮つくこともない、ギリギリの操縦をしているつもりだったのだ。
劇団員はそんな意識はなかったかも知れないが、理生さんと僕の間ではこのバランス感覚こそ、確信犯的に共有していたものでもあった。
そうでしたよね、理生さん!
「ハノーヴァの肉屋」はドイツのハノーヴァ市で実際に起こった事件をもとに、浮浪者を捕まえてきてはその肉を売っていた肉屋と、その肉を人肉と知らずに買って食べてしまった市民たちのお話だ。
「吸血鬼」においては血の共有が一つのテーマだったが、今回は肉の共有の話である。
その主人公の肉屋は、まるで劇団員と言う名の浮浪者を集め、その肉をマスコミに切り売りしようと画策していた私たちと、どうしても重なって考えてしまう。
もちろん、いちばんたくさん切り売りしたのは、理生さん、あなたの持つ「コトバ」と言う名の肉だったのかもしれませんね。
そして血の共有と同じように肉の共有も、一つの劇団が大きくなって行く時、避けられないテーマでもあったのかもしれない。
外から見ればドロドロの気持ち悪い集団だったかもしれないが、実際に入っている人間にとってはこれ以上に居心地のいい場所はなかったとも言えるのだ。
そうして私たちは戯曲賞受賞によって一気に認知されながら、良くも悪くも特殊な存在の劇団として見られるようになるのだった。
時代はバブルの始まりで、世界は冷戦の終焉が近付いていた。

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「八百屋の犬」の頃2

当時私たちは「糸地獄」に代表されるドロドロの女の世界に少し飽きていたのも事実だ。
マッチとエリスポ(エリアをクッキリとさせる照明)で作る線のような明り。
光と影と煙で作る幻想的で耽美な、それでいて猟奇的な世界。
言ってみれば暗黒の浪漫主義とでも形容できる、かなり偏った演劇である。
そんな世界に決別したい。でも、その世界の代表のような「糸地獄」で岸田戯曲賞を受賞してしまった。
そこで、私たちは考えた。「糸地獄」の上演ではない方法で、これまでのそうした浪漫主義の演劇の集大成を行い、自らその世界を封印しようと。
そして選ばれた作品が、この「八百屋の犬」の再演だったのだ。
これは滝沢馬琴の「南総里見八犬伝」を元に哥以劇場時代に書かれた作品で、当初から八犬士の活劇よりも、伏姫と八房(犬)の叶わぬ恋に焦点が当てられていた。
つまり「夢の浮橋」が近親相姦だとすれば、「八百屋の犬」は獣姦の話と言ってもいい。
これを、それまで「糸地獄」などで培った光と闇の世界で描き、劇団が持っていたネタを総ざらえしようとしたのである。
もちろん、その為には「紅三ピット」と言う、小劇場なのに大劇場並みのタッパ(高さ)がある小屋を使えたのが、大きな理由でもある。
もともと染物工場の跡地をアトリエとか劇場にしようと思ったのは、そのオーナーの娘さんが松竹に入社し、稽古場に困っての事だったらしい。
私が初めて訪れた時は、蜷川カンパニー以外は誰も使っていない状態で、下町らしいアットホームな歓迎のされかたをした。
普通マッチなどを使うとうるさい地元の消防署も、査察には来るものの、「困りましたねー。注意してやって下さい!」と言われるだけで、かなり悠長な感じだった。
そんな好条件の小屋だった為に、私たちはその後も何回もここを利用する事になる。

暗黒の中で何匹もの犬の遠吠えが聴こえる。
その中で激しい犬の息づかいと伴に一本のマッチが擦られ、「犬畜生!」の叫びと同時に音楽が流れ込んで来る。
初演時には八人揃わなかった犬士も、新人と外部の参加者を含めて八人集まった。
まるで犬たちに犯されるように「地獄極楽逆落とし」という遊戯を強いられる少女たち。
そして最後は野外コンサートで使われる照明機材をバックライトにして、背後の扉が開くとまるで未知との遭遇のような発光が、物語すべてを吸い込んでゆく。
小劇場の現場としては最大限のスペクタクルを繰り広げたのである。
もちろん、いままでの集大成と言うだけあって、目新しいものはほとんどなく、観客の反応もそれほど良くもなかった。
しかし、これをやらないと、私たちとしては次のステップに行けない、重要な公演であったのもまた事実なのだった。
そして、現場で役者と演出が、より完成品を目指して切磋琢磨している間に、理生さんは次からの全く別の展開の新作を考えていたのである。
そのタイトルは「恋」。
まさに理生さんしか書けないようなタイトルのお芝居で、「死」とか「人生」とかと同じで、ちょっと間違えばあまりに大上段で恥ずかしいタイトルなのだが、これを「昭和の恋、三部作」として、その後三年間にわたって展開して行くのであった。
劇団員の年齢も徐々に上がり、この「八百屋の犬」のような体力勝負の作品は、どんどんできなくなる。
そんなギリギリの状態での再演で、この公演のおかげで一つの定番が完成し、その後も何回も「糸地獄」が再演される下地のようなものを作ったといってもいい。

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「恋其之壱」の頃

「糸地獄」の岸田戯曲賞受賞の後、理生さんが書き下ろした新作は「恋」という作品だった。
このあまりにも大上段に振りかざしたタイトルに怯み、私たちは最初「ワークショップ恋」と表記した。
しかし、この作品がこの後三年間にわたって続く「昭和の恋、三部作」の第一作目になったのだから、今から考えればそんなにタイトルにおびえることなく、堂々と「恋其之壱」と名乗れば良かったのだ。
時代設定は、それまでにも何度も使われた戦争前の日本。昭和の初めと言っても良い。
東京下町の州崎の路地裏で、女たちは恋をしながら洗濯をする。雑巾を縫う。竈に火をつける。
娼婦と主婦たちはどちらも恋をする。日常とエロスが交錯する時、本当の恋物語が始まる。
とこれは、チラシなどで説明されている文章だが、実際には古き良き時代の女たちが、恋と日常のはざまの中を逞しく生きてゆく姿が描かれている。
公演場所は三回目となるザ・スズナリだったが、その前に東京アートセレブレーションなる企画に参加して江東区文化センターでの公演も行われた。
このファスティバルは、それ程条件の良いものではなかったが、私たちの劇団としては初めて、買われての公演だったので嬉しかった。
前回公演の「八百屋の犬」あたりから、新人も入ってくるようになり、劇団員の厚味も増してきた。
しかし、それとは別に、いろいろな問題が噴出した公演でもあった。

岸田事務所+楽天団の創立メンバーは、基本的にどちらかの劇団に所属していた。
だから、普段は特に区別するわけでもないのに、何か事件が起こると、やはりあいつは元楽天団だからとか、元岸田事務所の人間だからとか言われたものである。
しかし、一人だけどちらの劇団でもないⅠと言う女優がいて、彼女は二つの劇団が一緒に活動を始めた「花札伝綺」から活動を伴にして来た。
その口跡の鮮やかさと少女っぽい顔立ちのおかげで、「糸地獄」では繭を「吸血鬼」では薬子を演じ、常に物語を進行していくいわば主役を担ってきた。
その彼女がこの「恋其之壱」の稽古に入る頃、個人的な事情で参加できなくなったのである。
それまでの公演で、彼女に情を移していたせいか、演出の和田さんは、これでは公演が出来ないと言い、中止か延期をしようと言い出した。
私も理生さんも、一度劇団を解散しているし、どちらかと言えば破壊願望が大きく、いつもはそれを和田さんが諌めたり励ましたりしてくれていたのに、この時ばかりは立場が逆転してしまった。
私と理生さんは、和田さんと何度も話し合い、どんな無理をしてでも公演を強行して欲しい旨の要請をした。
アートセレブレーションと言うフェスティバルに参加もしていたし、劇団が一つの節目に入っていて、その最初の公演なので、なんとしても上演したかったのである。
それに、「吸血鬼」の時にはYと言う女優が出演できなくても、代役を立てて公演を乗り切ったのに、Ⅰが出られないから公演を延期するのでは、基本的に民主主義で劇団経営をしていた、その土台が崩れてしまう。
和田さんは二つの劇団が共同作業をするようになって以来、理生さんと理生さんの脚本に恋をして、その気持ちを成就させるべく演出をしていたと言ってもいい。
ところがこの時期は、主演を続けてきた一人の女優にも恋をしてしまっていたのかも知れない。
つまり、演出が真摯に作品作りをすればする程、陥りやすいワナに嵌まっていたのだと思う。
この時は、理生さんと二人でなんとか説得して、無事予定通り公演を成し遂げたが、このワナはその後も何度も劇団に危機をもたらすことになる。
そう、すべては「恋」が原因だったと言ってもいい。

「宵待草」の頃2

岸田戯曲賞を受賞して、怒涛のような一年が過ぎると、私たちは次の展開を考えなくてはならなかった。
前の年に演劇評論家の西堂行人氏のとりなしで、鈴木忠志氏を紹介され、「八百屋の犬」の稽古をしている頃、鈴木氏が主催している利賀国際フェスティバルを見に行った。
そして、その場で翌年の夏に第三エロチカと私たちの劇団が招聘されることになった。
理生さんは「恋其之弐」を合掌造りの山房でやりたいと言った。
交通費(バス代とトラック代)、食費、宿泊費(雑魚寝)は出るが、ギャラ(制作費)はほとんどないという。
あまり好条件ではなかったが、なんと言っても利賀フェスに参加できるのだから贅沢は言っていられない。
その代わりに、私はその作品を持って、名古屋と大阪と東京でも公演できないものかと画策していた。
幸い名古屋は七つ寺共同スタジオが、大阪は扇町ミュージアムスクエアが受け入れてくれそうだった。
さて、それで夏以降のスケジュールは決まったが、その前の予定はハッキリしていなかった。
それとは別に、渋谷ジアンジアンからも、何か公演をやってくれないかと言われていた。
「青森県のせむし男」以来、少しご無沙汰していたので、こちらも何か作品を考えなくてはならなかった。
劇団創立からまだ二年で、ジアンジアンでやれるレパートリーは少なかった。
そこで私たちは「宵待草」の再演を考えた。

前回の初演時はワークショップと銘打って「糸地獄」の助走ともなる作品だったのだが、基本的にはTと言う一人の女優を中心にした登場人物の少ない脚本である。
だから再演では、その元々のキャスティングでやればよいものを、この時もまた劇団総員で公演をすることになる。
役の軽重はあれ、ともかく劇団員全員での行動が劇団の結束を強めると思っていたかのようだ。
ただしそうは言っても、男優はともかく、ほとんどの女優たちは冒頭とラストに群集のように立ち現われるだけだったのだから、その女優たちを救う為にも、もう一本別の作品を考えなくてはならなかった。
それが、この「宵待草」の直後に行う「ワークショップ眠る男」だったのだ。
こうして、劇団員の数が少しずつ増え、それぞれの役者の力量もアップするに従って、少人数のお芝居を同時並行あるいは連続して行うパターンができてくる。
その最初の試しが、この「宵待草」「眠る男」の連続(と言っても二ヶ月の間隔があるのだが)上演だったのだ。
そしてこの時の「宵待草」の再演の好評が、次の展開を作っていく。
本来の少人数での「宵待草」に形を変えて、セットなどもあまり大仰にしなければ、寺山作品でなくても再び沖縄ジアンジアンでの公演が可能だと言うのである。
沖縄ジアンジアンの場合、なんと言っても飛行機での移動となり、これが普通の旅公演とは違って魅力的なのだが、その為にそれ程多くの荷物を持っていけないのだ。
しかも「青森県のせむし男」の時とは変って、劇団の自主公演の形にならざるをえない。
だから、他の都市での公演や受入先を劇団の方で考えて、予算を立てなくてはならなかった。
ちょうど次回の「恋其之弐」で、名古屋、大阪での公演ツアーを考えていた私は、その次の展開としてこの「宵待草」のような小品をレパートリーとしていろんな都市を廻れないかとも考えていた。
もしそれがうまくいけば、ゆくゆくは労演などに頼らなくても、全国ツアーも夢でないとも思っていたのだ。
こうしてこの「宵待草」と言う作品は、まるで劇団の水先案内人のような役割を果たし、「糸地獄」とはまた別の意味で、節目ごとに再演を繰り返してゆくのだった。
 

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ワークショップ「眠る男」の頃

さて「宵待草」の再演が終わると、息つく間もなく私たちは次の公演に取りかかった。
「眠る男」は実は理生さんの処女作で、運良く雑誌「新劇」にも掲載されたのだが、まだ劇団を持つ前だったこともあって、これまでに一度も上演されたことのない戯曲だった。
そんな作品をそのまま眠らせておくのはもったいなかったし、既に次回公演の「恋其之弐」に取り掛かっていた理生さんとしても、場つなぎとして格好の作品だった。
ただし、初期の作品特有の難解さと未消化の部分もあり、そのままの上演ではなく、他の作品からも言葉を持ってきて、コラージュのような作品にした。
こうした作業は実は和田さんが合併前に「楽天団」でやってきた事で、その自由度ゆえに若手育成にはもってこいでもあったのだ。
ちょうど「哥以劇場」の時のワークショップ「凧」を思い描いていたともいえる。
あの時は泉鏡花の作品から言葉を持ち込んだが、今回は理生さんの初期作品から言葉を持ち込むのだ。
スタジオあくとれに大量の砂を持ち込み、客席よりも舞台を多く取り、若手にとっては贅沢な、古株にとっては新鮮な遊び場となった。
この公演で私は劇団合併後初めて制作のみに従事することになる。
その後に控えている本公演とそれに続く旅公演の諸準備にかかる必要があったのだ。
常に舞台に立っていたい役者、特に女優達からは「よく制作だけやって平気でいられるよねー」などと関心されたが、私は全く迷いがなかった。
もちろん舞台に立ちながら制作もやるというのが、私の基本姿勢ではあったが、どうしてもそれでは無理がある時は、潔く制作のみの作業を引き受けるのは当然だと思っていたからだ。
いや、むしろ、この頃は旅公演と言う目標があり、日本の主要都市を制覇したくてウキウキと制作作業をしていたとも言える。
そんなワケで、このワークショップ「眠る男」の稽古現場にはあまり行ってなかった。

仕込みの日から稽古場に行って見ると、若手の間でトラブルが発生していた。
聞いてみると、どうも一人の男優が共演している一人の女優に片思いをして、彼女にしつこく付きまとうらしいのだ。
大勢の人間が同じ現場で作業しているのだから、そんなことも起こる。
彼などはかわいいもんで、前の年に入って来た新人など、少し精神に病気を抱えていて、本番の舞台の最中に好きな女優の後をついて舞台に上りそうになったくらいである。
こちらの方はなんとか説得して劇団を辞めて田舎に帰らせたのだが、今回はそれ程のトラブルとも思えなかったので、そのまま放置しておいた。
本番では、そのストーカー行為をされていた女優がその男と絡むシーンの演技が素晴らしく、つくづく演技の不思議さを感じてしまった。
それはともかく、いずれにしても劇団に入ってくる新人をどう扱うか、問題点も多くあるようだった。
それに、劇団の新人として古株と同じに扱うと、どうしても毎日稽古場に来て、身体訓練をして、後はセリフも少なくただ見ているだけの状態に置かれてしまう。
そんなわけで、実は私たちはこの年から、新人募集をやめて、劇団附属の研究所のような組織を持つことにしていた。
名前を「イオの会」と言い、劇団の稽古は昼間だったので、週に三日夜間に別枠で演出の和田さんが指導する体制を作ったのだ。
演出の和田さんに預ける事で、劇団の演技を知って貰い、劇団費ではなく別枠で会費を取る事で、逆に和田さんには定収入が入ることになるとも考えたのだ。
そして一年間かけて問題のある新人がいないかどうかチェックする意味合いもあったのだった。
その後5期にわたって続いて行くこの組織は、劇団の新人を養成して行くことになる。
「宵待草」と「眠る男」の連続上演によって、役の軽重のバランスが取られ、「イオの会」によって、それ以外の新人の場もできた。
劇団が大きくなるとともに、そんな風に組織の改変もなされていくのだった。
 

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「恋其之弐」の頃

これまでの芝居人生の中で、忘れ得ぬ夜というものがいくつかある。
もちろんそれは地道な努力によって報いられる数少ない夜なのだが、そんな夜が有る為にこれまでお芝居が続けて来られたと言ってもいい。
利賀村で迎えた初日の夜も、そうした貴重で充実した夜の一つだ。
「恋其之弐」は理生さんの中では「昭和の恋三部作」の第二弾の作品で、終戦直後の女たちを描いたものだ。
しかし、私の中では少しその位置付けが違っていた。
それはこの作品を持って始めて劇団独自のルートで旅公演を行う作品だったからだ。
利賀国際演劇フェスティバルは予算的には苦しい条件だったものの、宿泊費、食費に加えて、バスでの劇団員の移動費とトラックでの装置の移動費が出たので助かった。
名古屋の七つ寺共同スタジオの二村さんのおかげで、その後の名古屋大阪ツアーもなんとか赤字にならずに行って帰れそうだった。
しかし、なんと言っても旅公演につきまとうトラブルは、いつどんな形で起きるのか分らなかった。
そんな不安も抱えつつ、この公演では私自身も出演することにしていた。
折角いろんな地方に行くのだから、役者として舞台の上からお客さんの反応を知りたかったのである。

利賀村ではまず水が変って体調を崩す劇団員が出た。
虫に刺されて苦しむ劇団員もいた。
それから、裸火を巡ってフェスティバル側とトラブルにもなった。
既に天井桟敷が公演を行っていたので、裸火の使用は当然ようのように考えていたのに、どうも利賀山房が国の重要文化財に指定されたらしく、裸火の使用ができなくなってしまったらしいのだった。
この公演では幸いマッチのシーンはなく、裸火は提灯だけだったので、代替の方法として豆電球による点火を、フェスティバル側が用意してくれることでなんとか合意した。
そんな苦労もあったが、なんと言っても空気がおいしく、清清しい山の風に心が洗われるようであった。
朝起きると少し離れた山の上の小屋で朝食を食べるのだが、歩いた分だけこれがまたおいしいのだ。
それでもやはり初日が開くまでは緊張していたのだと思う。舞台稽古の時などは皆ピリピリしていた。
利賀フェスがすごいのはなんといっても観客動員で、とにかく満員御礼の初日の客を見て、やっている方はそれだけで嬉しくなってしまった。
そして、その初日の終演後、フェスティバル側が酒宴に招待してくれたのだ。
東京からやってきた評論家達や、海外からやってきたアーティスト達、それに白石加代子らのスコットの役者達。
鈴木忠志の挨拶に続いて、そうした面々が歌などを披露する。
そうそう順番は忘れたが、作家の島田雅彦もイタリア歌曲を歌ってた。
そうして今度は私たちの劇団員がお返しをする番である。
私は「ラマンチャの男」と「見果てぬ夢」を鍋と箒を使って歌い、劇団員のYは「雨降りおっ月さん」をビニール傘をさして歌った。
皆、初日の緊張から開放されて、心地よく酔っ払っていた。
旅公演は始まったばかりだったが、この日ばかりはまるで勝利の美酒に酔いしれるような心地よさだったのだ。
そんな夢見ごこちで宿舎に帰る途中、私たちはたくさんのホタルが光っている小川を見つけ、ますます幻想的な山の夜に有頂天になった。
そして、まるで子供に返ったように私たちは歌を合唱しながら歩いた。

「臘月記」の頃2

「恋其之弐」の旅公演が終わると、劇団員は東京公演に備えて短い休暇に入った。
しかし、私だけはその足で大阪から下関に飛び、次の春に予定していた「宵待草」ツアーの交渉をした。
何故下関かと言うと、演出の和田さんが下関出身だったことと、この当時照明を担当してくれていた林徹君が下関出身で、地元での公演をする為の人脈があったからだった。
ジアンジアンルートに乗って飛行機で移動する場合、日本航空とのタイアップで沖縄までの航空券がほぼ半額で利用でき、しかも大阪と博多で途中下車が可能だった。
沖縄ジアンジアンと大阪は扇町ミュージアムスクエアとは既に交渉済みがったが、折角博多でも降りられるのだから、なんとか博多での公演も考えたかった。
下関に着くと早速地元で林君が働いていた照明会社を訪ね、下関公演での全面支援をお願いする。
続いて、その照明会社とオフィスを共有している「海峡座」と言う名の地方劇団の座長を紹介され、これまた観客動員での協力と会場の斡旋をお願いする。
そして博多でも公演の可能性がないかと聞いてみると、一人呼び屋のような事をやっている面白い人間がいると言う。
明くる日、私は一人でその面白い人物に直接会いに行く。
なんでも博多は天神の親不孝通りにある、「勝手にしやがれ」と言う名の飲み屋のマスターらしい。
昼間電話をすると、5時から営業時間なので、その頃お店に来いと言う。
それまでの時間、私は会場として考えていたホールの下見に行き、その後でそのキワドイ名前の飲み屋に向かう。
このマスター、なんでも状況劇場とかも呼んだりしていて、かなり百戦錬磨なツワモノだったが、店が終わるまで待って、その後一緒に飲みに行くと一転して気を許し、一晩ですっかり意気投合してしまったのだった。
結局その日はそのマスターの家に夜中から泊まらせてもらい、翌日には別の人物を紹介されて、わずか一晩で博多での公演を可能にしてしまったのだから、なんとも無謀な交渉をしたものである。

こうして、翌春の「宵待草」ツアーは、東京、下関、博多、沖縄、大阪と、全国5都市での公演が可能となった。
この公演はなんとしても経費を削減する必要があり、登場人物も5人に絞らなくてはならなかった。
その残りの役者を使って、12月にこの「臘月記」をやったのである。
「臘月記」は「哥以劇場」時代に初演したものだったが、理生さんの中では初期の代表作品だとの想いが強かった。
それに「臘月記」もまた少人数での公演が可能であり、「宵待草」に続く地方公演用の作品として考えられないかとの思惑も私にはあった。
新劇の劇団のように、旅公演で稼いで東京で新作を上演するという経営を考えていたわけではないが、いろんな地方に住む人たちにも私たちの作った芝居を観て欲しいとの思いが大きかったのだ。
劇団が大きくなるにつれ、小さな公演のレパートリーをいくつか持ちたいとの欲望もあった。
もちろん、そうした形でグループ分けする危険も充分に承知していた私たちは、翌年の夏に「糸地獄」の再演をし、そこでまた劇団員の総力戦を仕掛けるつもいでもあった。
「臘月記」の主役はYと言う女優がやったのだが、初演の時のMと比べても遜色なく、持ち味を充分に生かした演技だった。
相手の将校役は、初演時は私が演じ好評だった役だったが、ますます忙しくなっていた制作の仕事の事を考えると、別の人間に譲らざるを得なかった。
もちろん役者としての参加もしつつ、次以降の諸々の交渉を続けるという、身が引き裂かれるような日々が続いた。
そしてそれは劇団としても同じで、二つの作業が同時に進行して行くにつれ、結束がゆるみ、さまさまな綻びも見え初めていた。
逆に言えば、この頃、旅公演とかレパートリーとか、必死になって目先の変った企画を考えていたのは、そうした綻びから目を逸らしたかったからかも知れないのである。
 

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「宵待草」の頃3

「劇団」と言うものが一つの事業だとしたら、この「宵待草」の旅公演は事業を最大に拡大していった、その頂点だったかもしれない。
ジアンジアンの提携はあったものの、他の場所での公演は、すべて手打ち公演だったし、全国5都市巡回というのも画期的だった。
この当時、小劇団の旅公演と言うと、トラックとバスでの移動だし、宿泊はほとんど雑魚寝で食事は炊き出しが出ればよい方だった。
ところがこの宵待草ツアーでは、移動はすべて飛行機だし、宿泊も最初の公演地である下関と博多こそ雑魚寝だったものの、沖縄では四人部屋朝食つきのホテル、大阪ではなんと二人部屋ホテルで、しかも公演中の食費をお金で配った。
とにかく初めての経験だったし、仕込み本番が続く強行軍だったので、せめて生活面ではストレスが少なくなるように配慮したのである。
当初小道具と簡単なセットは団員の手荷物扱いで行く予定で、現に「青森県のせむし男」で沖縄大阪に行った時には、それが可能だった。
ところが、だんだんと近付いてくるにつれて、セットのデザインをしている舞台監督のNに欲が出て来て、荷物がだんだんと増えて来てしまった。
そしていざ空港で交渉をしてみると、とてもこの人数の手荷物扱いでは運べない事が判明してしまったのだ。
日本航空のシステムが厳しくなった事もあったし、搭乗する人数は少なくて、逆にセットの方はニセ柱などが増えて、かなりかさ張っていたのだ。
仕方がないので、別料金を払ってツアーを開始したのだが、この時点で既にツアーの赤字が決定してしまった。

下関は地元の照明会社と劇団の全面的なフォローのおかげで、なかなかの盛況だった。
ただ時間が限られていて、満足に風呂にも入れなかったので、公演終了後に皆でサウナに行った。
翌日からの博多での公演では、知り合いが何人も駆けつけてくれたし、地元の受け入れグループも熱狂的に歓迎をしてくれた。
しかし舞台監督のNは何が不満だったのか、酒を飲むと突然のように荒れた。
沖縄ジアンジアンは慣れてる分気楽だったが、お客は少なかった。
公演の明くる日一日だけ休養日にしていたので、皆でビーチに遊びに行ったが生憎の雨だった。
大阪は最後の公演地だったので、仕込み作業も慣れたものだった。
しかし皆疲れていたせいもあったのだろう。ホテルのツインルームに宿泊するという快挙だったにも関わらず、仕込みとバラシがキツイとの不満が噴出した。
確かに劇団員にはいろんな無理をさせたし、劇団員同士の人間関係の問題もあったかも知れない。
それにしても「青森県のせむし男」の時や「恋其之弐」の時に比べれば、格段にいい待遇だったのに、どうしてこんなにも不満が出るのか不思議だった。
実はそこにこそ、後に劇団が紛糾する素が隠されていたのだが、当時の私には「劇団員もだんだん歳をとって体がついていけないからワガママを言うのだなー!」くらいにしか感じられなかったのだ。
いずれにしても、いろいろと問題もあったが、舞台成果としての「宵待草ツアー」は成功に終わった。
ただ最大の問題点は大きな赤字が発生してしまったことだった。
私の予算の立て方が甘かったのと、経費の節約の仕方が甘かったのと、もちろん一番の原因はセット運搬の航空費が余分だったことである。
では、その赤字は一体誰が埋めるのか?
文句を言うばかりでその方策については誰も答えてくれない。
それはそうだ。私が勝手に企画して劇団員にはしんどいツアーをやらせ、おまけに赤字まで作ったのだから。
この窮地を救ってくれたのは理生さん、あなたでしたね。
もちろん私も少し負担しましたけど、大部分の赤字は理生さんが埋めてくれたのでした。
そして、以後私が企画する劇団公演について、理生さんは一定の赤字に対する補填を覚悟するようになるのだった。
果たして、それが良かったのかどうかは分りません。
しかし、そのおかげで、この劇団はその後も数年間、どんどん成長しているように見えた事も間違いのない事実だ。

「糸地獄」の頃2

さてその次の公演は、いよいよ「糸地獄」の再演である。
とにかくこの戯曲はもともとスケールが大きくて、出演者数にしてもセットにしても照明にしても小道具にしても、ほとんどすべてにおいて、通常の芝居の二倍の力が必要だった。
会場となるベニサン・ピットは、初演時のアトリエ・フォンテーヌよりも一回り大きくて、この芝居には持ってこいのタッパだった。
出演者数は本来13人の女性と数人の男性で、これはこの時点では劇団員だけでも賄えたが、あえて外部からの出演者も募った。
セットも前回よりも一段とグレードアップしていたし、小道具の糸車も今回はすべて手作りで、稽古場は稽古の前と後はまるで工房状態だった。
その作業の分量たるや半端なものではなかったが、劇団員、特に男優達はほとんど不平も漏らさずに淡々と作業をこなした。
戯曲賞を受賞した作品だっただけに、ベニサンでの公演では劇団創立以来最高の観客動員を記録した。
と言っても、その数はたかだか1500人程度のもので、劇団員に作業の手当てすら払える状態ではもちろんなかった。
東京公演はそれでも、そうした観客の熱狂に励まされる形で成功裡に終わり、評判も上々だった。
セットや小道具は松本での公演までの間、ベニサンの倉庫に保管してもらえることになり、約1ヶ月の間劇団はお休みとなった。
松本公演までの間が中途半端に開いてしまったが、公演前のおさらいのような稽古が始まると、皆すぐに勘を取り戻し、劇団員同士の結束は固いように思われた。

ところがその松本公演の仕込みの最中に事件は起こった。
長年一緒に作業をしてきた舞台監督のNが仕込みが終わった夜、突然腹を立てて東京に帰ってしまったのだ。
実は松本公演に関しては、それなりに製作費も払われるということで、とにかく大変な仕込みと裏の作業の為に、知り合いの大道具の専門家を3人、助っ人として連れて来ていた。
にも関わらず、やはり仕込みは大変な作業で、劇団員総勢で作業に当たらなくてはならない。
そんな劇団員全員で働いている現場で、女優陣の筆頭でもあるTから不満の声が上がったらしいのだ。
具体的にどのようなやり取りがあったのかは、私もよく分らないのだが、その不満の声を舞台監督の頭越しに演出の和田さんが認めてしまったらしい。
Nとしては、Tが主役の「宵待草」の旅公演以来、Tの態度とそれに対する和田さんの対応が不満だったのかもしれない。
とにかく仕込みがなんとか終わったその日の夜、和田さんとの話が終わると、突然プイッと東京に帰ってしまったのだった。
もっとも、このNの行動の原因はそのトラブルだけではなかったのかもしれない。
と言うのも、助っ人の中には舞台監督経験が豊富な人間もいて、Nがいなくなっても具体的には公演が可能になるように、前もってN自身が仕組んでいた節が見られるからだ。
Nとしては、劇団に対する積もりに積もった不満を、発露する機会を狙っていたのかもしれない。
あおりを食ったのは私の方である。
とにかく舞台監督が舞台稽古の日にいないという異常事態に、夜を徹して対応しなくてはならなかった。
幸いNが仕込んでいたのかどうかはともかく、助っ人に優秀な舞台監督がいて、劇団員としがらみがない分、その後のゲネプロ本番はスムーズにいったのだが、初日が開くまでは気が気ではなかった。
おかげで舞台の初日は無事開いたものの、私の喉は壊れ、全く使い物にならない声で三日間の舞台を務めなくてはならなかったのだ。
舞台のデキもイリも大盛況に終わった松本公演の帰りのバスの中、とにかくホッとした私は一人でガラガラ声を張り上げて歌いまくった。
トラブルのおかげで演技が満足にできなかった悔しさと、舞台監督がいなくなって今後の公演がいままで通りできるかどうかという不安を吹き飛ばすつもりだったのだ。
しかし歌えば歌う程、そのガラガラの歌声はカラ元気にしか聞こえず、虚しく響いていたに違いない。
思えばこの時が、劇団としての一つのターニングポイントだったのかもしれない。

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​あの頃3に続く。

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