リオフェスの思い出

岸田理生さんを偲ぶ会 2003
2003年6月28日の午前、理生さんの訃報がお母さまから届いた。
しばらく返事ができないでいる私に、お母さまは通夜葬儀の詳細については、追って連絡をするとおっしゃった。
大きくため息をつき、お気を確かにお持ち下さいと伝えて、携帯を切った。
一体私は何をすればいいのだろうと、放心していると、雛ちゃんから連絡があり、劇団の関係者は私の方から電話すると言われた。
それでようやく我に返って、訃報をどこに流せばいいのかと考え始めた。
お母さまから葬儀等の詳細が知らされ、私はまず、いままでに関係のあった新聞社に連絡をする事にした。
続いて、演劇関係、映画関係、出版関係の親交のあった人達に。
その日は、その他たくさんの関係者に連絡をとる事で、あっという間に一日が過ぎていった。
通夜は岡谷の実家で遅くまで行われた。理生さんは静かに眠っていて、弔問客がいらっしゃる度に、静かに酒を酌み交わした。
かなり酔ってはいたが、お母さまから翌日の葬儀の弔辞をお願いされていたので、最寄のホテルで必死になって書き上げた。
葬儀は真言宗のお寺で、読経の合間に、いろはうたのような不思議な歌が流され、それが理生さんの葬儀にふさわしいように感じられた。
理生さんの親族に混じって、東京からも30人程の関係者が集まったが、岡谷は少し遠くて、来られなかった人もたくさんいた。
翌週、私は理生さんと最も親しかった武藤さんと雛ちゃん、それに西堂さん、諏訪部さんなどを誘って、実行委員会を作り偲ぶ会の準備にとりかかった。
なるべく幅広くの友人を呼ぼうと、思いつく限りの方々にご案内を送る。
発起人には、荒井晴彦、内野儀、太田省吾、岡本章、小田島雄志、岸田今日子、九条今日子、佐藤信、実相寺昭雄、J・A・シーザー、
谷川道子、外岡尚美、富山加津江、永井愛、西堂行人、蜷川幸雄、李清和、和田喜夫、渡辺えり子、(敬称略)にお願いをした。
武藤さんが、理生さんの詳細な活動歴を作成してくれる事になった。
そして、一か月後の7月28日、スタジオあくとれで「岸田理生さんを偲ぶ会」を行った。
和田さんが主体となって、公演ポスターなどを飾り付けた。簡単な料理とお酒も準備した。
まず私が、倒れてから亡くなるまでの経緯の報告をし、西堂さんと永井愛さんに弔辞をお願いした。
狭いあくとれに300人程もの弔問者が訪れ、一人一人に献花をしていただく。
その後、雛ちゃんのリーディング、小林達雄さんと斎藤徹さんによる「ソラ・ハヌル・ランギット」の一節の朗読、渡辺えり子さんと劇団員によるリーディングと続く。
そして、お母さまからのビデオメッセージを流して、一次会は終了した。
続いて行われた二次会では、佐藤信さんによる献杯の御発声。
「理生さんがやってきたこの演劇活動を、この後、誰が引き継ぐのか?いや、引き継げるのか?」
大杉漣さんもやってきた。京都の無門舘から遠藤さんもやってきた。
あとは延々夜中まで飲み続けた。夜中になって少しづつ人が少なくなると、私は韓国の音楽を流して一人踊り続けた。
夜も更けてから、ある友人に「宗方さんが一番近くにいたのに、ぜんぜん悲しそうじゃないね。」と言われた。
「私が悲しくない訳がないじゃない。それとも、あなたは私を泣かせたいの?」と絡むように叫んでいた。
夜が白々と明ける頃、私は最寄のホテルに仮眠をしに行った。
こうして、一回目の偲ぶ会は終わり、その後行われた実行委員会で、翌年以降行われる偲ぶ会を「水妖忌」と名付け、
岸田理生の著作物の管理・普及活動を行う「理生さんを偲ぶ会」を正式に発足する。
それまで制作として理生さんと行動を共にして来た関係で、私はその代表となった。
一周忌に向けて、戯曲集の刊行の方法についても話し合ったが、なかなか良い方法は提案されなかった。
いろいろとやるべき事は多かったが、私はまずWEBに「理生さんを偲ぶ会」のページを追加した。
岸田理生作品連続上演 2004
この企画は実は前年に行われた「岸田理生さんを偲ぶ会」の時に始まっていた。
私としては、旧劇団員やこれまでに岸田作品を上演して来た、多くの劇団などはそれぞれに追悼公演を行うものと考えていた。
だからこそ、今まで親交こそあったものの、岸田作品に触れていない若手の劇団を集めて連続上演をしようと考えたのだった。
偲ぶ会の最中に、私はまず岸田作品に共感を持っていた「紅王国」の野中さんと、「ルームルーデンス」の田辺さんに誘いをかけた。
次に「榴華殿」の川松さんにも交渉して、参加してもらう事になった。スタジオあくとれからも電気代が免除された。
そして、最後に私自身はお会いした事がなかったが、晩年の岸田の作品を手伝ってくれた「指輪ホテル」の羊屋さんにも参加を呼び掛けた。
また、旧岸田理生カンパニーのメンバーによる未上演戯曲「海鰻荘奇談」のリーディングと、西堂さん司会のシンポジウムも企画し、全容が整った。
このうち「榴華殿」と「指輪ホテル」には芸術振興基金からの助成がおりた。
他の劇団としては、あまり条件のよくない企画だったが、ほとんど不満の声が漏れて来ず、その意欲に甘える形で公演を行ってもらった。
「気鋭の4劇団、岸田理生を食す!」のキャッチコピーは、トップバッターのルームルーデンスの「料理人」に引っ掛けてのものだった。
続く榴華殿の「捨子物語」と紅王国の「火學お七」は、初期の作品でかなり難解な構造の物語だったが、とても意欲的に取り組んで頂いた。
そして圧巻だったのが指輪ホテルの「リア」である。
観客はまず本会場とは別の小さな部屋に通されて、「リア」の概略が一人の俳優と人形を使って説明される。
そして本会場に入ってからは、ほとんど岸田のセリフを使わず、指輪ホテル流の動作と行為による、まさに羊屋ワールド全開だったのだ。
父親を殺し、妹を殺し、家来も殺し、はては自分自身をも殺してしまう、リアの長女の物語を、「長崎カッター少女」の衝動と冷徹さになぞらえて遊戯にしてしまう。
まさに換骨奪胎。「どこがリアだー!」と叫びたくなるようで、実際「こんなものは岸田理生じゃない!」と思った客も多かった。
しかし、フェスが終わり、4劇団を比較してみると、なんとこの指輪ホテルが最も理生さんの精神を体現していたように感じたのである。
つまり、岸田作品の再演をただ行うよりも、その精神を受け継ぐ事こそが重要なのだと感じたのだった。
旧岸田理生カンパニーのリーディングは、未上演戯曲だったので、概ね好評で、このグループが翌年以降の「ユニットR」に続いて行く。
シンポジウムでは、参加劇団の主催者四人に加えて、太田省吾さんと谷川道子さんをゲストとして招いてお話しして頂いた。
「なんて言うか、天井桟敷系の劇団は、ほんとに死者たちに対して思いやりがあるよねー。」と太田さんは羨ましそうだった。
自分が近い将来他界して、その後、旧劇団員たちの誰がキチンと追悼してくれるのかと、心細げに想像していたのかも知れない。
また、28日に行った「水妖忌」では、蘭妖子さんのミニコンサートと、半田淳子さんの琵琶演奏に柴崎正道さんが舞踏で絡み、場を盛り上げてくれた。
この一年間に寄せられた、国内外の演劇人からの文章、メッセージを小冊子にして配った。
献杯の御発声をお願いした、映画評論家の松田正男さんが冒頭、
「いやー、今日の偲ぶ会は一年目だから本当に盛沢山で、これが5年6年とか経つと、だんだん寂しくなってねー。
神代さんの偲ぶ会も最近あったんだけど、ただ集まって飲むだけだったもんねー。来年以降もそうならないように頑張って下さい。」と言われた。
前年から考えていた「岸田理生戯曲集」は、村井健さんと而立書房のお力添えで、三冊が連続で発売された。
第一集は「捨子物語」と「火學お七」で、第二集は「糸地獄」と「料理人」、第三集は「鳥よ鳥よ青い鳥よ」と「リア」だ。
「リア」のみはこの年の夏に発売だった為に、この時点では発売されていなかったが、「料理人」「捨子物語」「火學お七」は公演に間に合って、受付でも販売された。
全行程が終了し、もろもろの精算の集まりの席で、紅王国の野中さんから提案があった。
今年は一年目だから、経済的にも厳しかったけど頑張れた。でも来年以降はせめて劇場費とか脚本使用料とかで、なんらかのフォローがないときつい。
駒場アゴラの平田オリザさんに話してみたらどうでしょう?
確かにあくとれは岸田の一番馴染みのある場所だけど、それだけの関係がありながら、ほどんど値引きもしてくれないのだ。
しかも、私が毎日行くわけではないので、各劇団とのやりとりで不具合が生じてもいた。
そこで、来年の企画を考える前に、平田オリザさんに相談してみる事にした。
なんだか怒涛のように連続上演が終わり、一息つくと、私自身が追悼公演をまだ出来ていない事に気が付いたのだった。

岸田理生作品連続上演 2005
こまばアゴラ劇場の平田オリザさんは、生前の岸田と懇意にしていたおかげで、私が相談に乗って欲しいと言うと、即座に応じてくれた。
この時期アゴラは文化庁からの支援を受けていて、使用する劇団を選別する一方、企画が通ると劇場費が共催の場合無料に、提携の場合半額になっていた。
平田さんは理生さんの連続上演なら、提携でも無料にしてくれると言う。「6月末からの2週間自由に使っていいですよ。」
そんな言葉に甘えて、参加劇団を募り始めた。
まず前回に引き続きルームルーデンスが参加を表明。続いてユニットRが初参戦。
千賀ゆう子さんからは、前年の連続上演で誘ってもらえなかった事の恨み節を聞かされていて、それならばと、「桜の森の満開の下」のリーディングをお願いした。
小林達雄さんや雛ちゃんから、丸尾聡さんが参加したがっているとの話を伺い、世の中と演劇するオフィスプロジェクトMにも誘いをかける。
一方、この企画とは関係なく、流山児事務所の若い演出の方から「永遠」の上演許可願いが来ていて、11月に見に行ってみるととても面白い。
その打ち上げの席で、流山児さんから「来年の連続上演、ウチも参加させてくれよ!」と言われた。
既に3劇団の公演と1つのリーディングで一杯だったので少し待っていただき、アゴラに連絡すると、もう3日増やしてもよいとの返答。
それならばと「最後の3日間でよければお願いします。」と伝えると、「その後、自分のアトリエで追加公演するから、それで構わないよ。」との事だった。
「永遠」は理生さんが「円」の為に書いた遺作である。
そこで私は、まだ演目が決まっていなかったルームルーデンスの田辺さんにお願いして、処女作たる「眠る男」を上演してもらう事にした。
「処女作から遺作まで…。僕等の思いは続いている!」のキャッチコピーとなった所以である。
これにシンポジウム「岸田理生ー未来形で発見する」を加えて、ラインナップは完成した。
そうした動きとは別に、私自身の追悼公演を行うべく、シアタートラムの松井憲太郎さんに「糸地獄」をやらせてもらえないかと打診していた。
「来年の予定はもう決定していて、再来年ならばキャンセルが出る可能性もあるから、もし空いたら連絡するよ。」との返答だった。
そのようにして、この年の連続上演が始まった。
ルームルーデンスの「眠る男」は、アゴラを大改造して四囲を客席にして行う大胆な舞台だった。出演者の半数が20代の少女で、彼女たちの若い身体から迸る汗が新鮮だった。
対してユニットRの「夢の浮橋」は、シンプルな舞台にサックスのみの音楽で、旧劇団員たちを使った、岸田の前期の異色作をねっとりと描いたものだった。
そして、西堂さんの司会に岡本章さん、和田喜夫さん、野中友博さん、渡辺えり子さんをパネラーにしたシンポジウム。その場でえり子さんから、次回はなんらかの形で参加したいとの発言があった。
この年の水妖忌は、このシンポジウムとの抱き合わせで行われた。
続いてプロジェクトMの「鳥よ鳥よ青い鳥よ」では、「ソラ・ハヌル・ランギット」のテキストも取り込み、現在形の作品に仕立て上げていた。
そして最後に行われた流山児事務所による「永遠」が圧巻だった。
吸血鬼の話を下世話に描くやりかたは、まるで鉈で物語をぶった切るようで、この作品の唯一のテーマである「永遠」を、男と女の愛の瞬間として描く。
永遠は一瞬だ!と言い切る流山児さんの演出は、スゴイの一言だった。
ともするとガサツなイメージで語られる流山児さんだが、自身の公演直前にもかかわらず、参加劇団すべてを観に来てくれて、「フェスなんだから当然だよ!」と言い切る姿には「男気」まで感じてしまった。
そんなアゴラでの連続上演を観たある日、トラムの松井さんから電話が入った。
「来年の7月後半に一週間キャンセルが出たけど、「糸地獄」やれる?」私は大喜びで引き受けるとともに、身が引き締まるような思いだった。
なにしろ、この「糸地獄」はその構造上、大人数の出演者と二階構造の舞台が必要で、劇団でやった時も、その度にトラブルを抱える大変な作品だったからだ。
まず私は、当時の公演そのままの舞台を再現する為に、なるべく当時のキャストを使い、演出も和田さんにお願いしようと考えた。
ところが、和田さんは事前に話した時には乗り気だったのに、残念ながら演出できないと断ったのだ。
仕方なく別の演出家を考えたが、私自身が懇意にしている演出家など一人もいなくて困ってしまった。
ふと、5年程前に自分のプロジェクトで二回演出をしてもらった高田恵篤さんは、どうだろうか?と思いついた。
彼ならばトラムには常連のように出演していて、劇場機構や劇場スタッフにも精通しているはずだし、理生さんの追悼公演ならば、引き受けてくれるのではないか?
そんな私の願いが叶い、恵篤さんは快く引き受けてくれた。それから私は必死に動き始めることになった。

岸田理生作品連続上演 2006
この年の連続上演には、たくさんの演劇人からのエントリーがあった。
今年は、なんと7作品。「疫病・岸田理生」増殖中!がキャッチコピーだ。そしてこの年から総合チラシとポスターのデザインを、岸田事務所+楽天団時代に作ってもらっていた高野アズサさんにお願いするようになった。
まず一年目の水妖忌の時に、ミニコンサートという形で歌声を披露してくれた蘭妖子さんが、改めて音楽詩劇という形で「さようならパパ」という理生さんの処女出版の詩集を上演。
この公演には万有引力のJ・A・シーザーさんが、演出・音楽として、劇団の俳優をひきつれて参加してくれた。
原作の理生さんの詩集は少女向けのファンタジックな作品で、それをシーザーが桟敷風に幻想的に仕立て上げてくれ、蘭さんのリリックな歌声が理生さんへの想いを表現していた。
次に昨年より参加している千賀ゆう子企画が、「桜の森の満開の下」を舞踏家とヴォイスパフォーマーとのコラボレーションにする。
しかも演出には理生さんの親友でもあった、韓国の女性演出家キム・アラさんを招聘するという。
この公演は事前に新潟はりゅーとぴあ能舞台でも上演し、この劇団としては最大限の金銭的リスクを負っての公演だった。
そして次は昨年に続きユニットRが「八百屋の犬」を上演。
理生さんの前期の作品を上演するというこの劇団だが、少しづつ劇団としてのオリジナルなカラーを作り上げつつあり、雛ちゃんと諏訪部さんの理生さんの作品に対する根強い拘りを感じさせた。
アゴラでの最後の劇団は、ショウデザイン舎といい、理生さんと最初に作った哥以劇場の創立メンバーだった山本健翔(葉月海彦)さんが主宰する劇団だ。
彼は哥以劇場の後、劇団「円」に入って演出をやっていて、亡くなる直前の理生さんと「三人姉妹」「永遠」などの演出もしていた。
流山児事務所が「永遠」を上演した事を受け、ならばと理生さんが流山児事務所の為に書いた「嘘・夢・花の物語」でエントリーしてくれたのだった。
そして、このあと劇場をシアタートラムに変えて、この年の連続上演はなおも続く。
私の制作するプロジェクト・ムーの公演「糸地獄」は7月末の予定だったが、7月の頭になんとルームルーデンスが同じシアタートラムが抽選であたって公演できると言うのだ。
そこで田辺さんが選んだ作品は「身毒丸」で、この作品は藤原竜也と白石加代子が演じ、蜷川さんの演出で大ヒットした、ある意味で岸田の代表作である。
白石さんの演技は鉄壁で、とても普通の女優では太刀打ちできない、と判断した田辺さんが選んだのは、「ソラ・ハヌル・ランギット」の主演を務めた、ろうの女優今野真智子だ。
そして音楽はすべて生演奏で盛り立て、しかも東京公演の前に大阪はin→dependento theatre 2ndでも公演をすると言う。
ちょうど6月28日がトラムでの仕込期間に入っていたので、私はその一日を田辺さんから又借りし、渡辺えり子さんにリーディングをお願いして、終演後に水妖忌を行う事にする。
えり子さんは、当然ながらお忙しい方で、あまり稽古時間が取れなかったが、ベーシストの齋藤徹さんとのコラボを楽しんで「メディアマシーン」を読んで下さった。
水妖忌ではトラムの松井さんに献杯の音頭をお願いし、ロビーにはたくさんのお客さんがいて、大成功だった。
とにかく、この年のルームルーデンスの意気込みは相当なもので、公演成果は大きかったが、今後の劇団に経済的不安を感じさせる程でもあった。
この年の最後の公演「糸地獄」に、何人もの若手女優を貸してくれた、ルームルーデンスの田辺さんには感謝してもしきれない程だった。
そして私自身の追悼公演として行われる、プロジェクト・ムーの「糸地獄2006」である。
前に書いた通り、当初は生前の舞台をそのまま再現するつもりだったが、演出が高田恵篤に変わった時点で、この発想をあきらめ、全く新しい形の公演をめざす。
四季の風を語る4人の糸女こそ、旧劇団員にお願いするも、主役の繭と糸屋の主人は恵篤がつれてきた。
糸屋の主人はティーファクトリーの笠木誠、そして繭役には、その頃すでに小劇場の一部では名前の知れていた吉田羊にお願いをする。
劇団時代の繭は無垢でか弱い少女として存在していたが、今回の羊ちゃんが演じた繭は戦う女性としてかっこよく存在した。
四人の男たちは、私と渡辺孝彦(潮)、岡庭秀之、そして工藤丈輝と、今考えればずいぶん贅沢な顔ぶれである。
その他の糸女はルームルーデンスの田辺さんに紹介してもらって、舞台美術、舞台監督などのスタッフはトラムをよく知っている人たちを恵篤が連れてきた。
「理生さん、いいんですか?恵篤は本気で糸地獄をぶっ壊すつもりですよ!」と私はチラシに書いた。
土曜日のマチネとソワレの間には「Rioマシーン」というタイトルのシンポジウムも開く。
ポスターハリスカンパニーの協力で、トラムとパブリックシアターのロビーに、主な岸田作品のポスターの展示も行った。
幸いこの公演には振興基金の助成もつき、恵篤の配慮でトラムの劇場機構とスタッフを最大限に活用した為に、ほんの少しの赤字で上演できた。
こうして、寄せ集めの人選だった為に、トラブルもいろいろとあったが、私としては十分満足のいく追悼公演となったのだった。
打ち上げの後「羊ちゃん、また一緒に舞台やって欲しいな。」とお願いしたが、残念ながらそれは実現せず、数年後には吉田羊の名前は全国に知れ渡り超売れっ子の女優になっていた。

第一回 岸田理生アバンギャルドフェスティバル(リオフェス2007)
アゴラ劇場との提携は、当初3年間のつもりでオリザさんと話していたが、この年のスケジュールの話をしに行くと、この後もやれる限りやっても構わないとの申し出があった。
そんなに長期にわたってやらせてもらえるのならば、もう少ししっかりとした名称のフェスティバルにしたいと考えた私は、その場でオリザさんに提案をした。
「岸田理生アバンギャルドフェスティバル」(通称リオフェス)の始まりである。
例年通り二週間アゴラを使わせてもらい、せっかく新しい名前を付けたのだからと、もう一か所、公演会場を考えた。
実はこの数年前から横浜でバンカート(バンク+アートを縮めた名前)という、アートを中心とした活動があり、そこの中心に元S.T.スポットの岡崎さんがいたのだ。
岡崎さんに相談に乗ってもらうと「私はもうここをやめちゃうから、主宰の池田さんを紹介するわ」と言う。
旧第一銀行跡(BankART1929)と旧日本郵船倉庫跡(BankART Studio NYK)を改装してホールとしても使えるステキな場所だ。
結局池田さんに相談してBankART1929の方を一週間お借りできる事になった。
期日はこちらの方が前で、プロジェクトMの丸尾さんに見てもらうと、面白がって公演を引き受けてくれたので、その仕込の状態の一日を又借りして、もう一つの企画を考えた。
題して特別企画「アンダー30 リーディングステージ」。岸田の作品を30歳以下の3団体にリーディングしてもらい、優秀作品を選ぶという企画だ。
若い演劇人と岸田の言葉を出会わせたかったのである。審査員には和田さんと千賀さん、それに演劇評論家の江森盛夫さんにお願いをする。
そして、その冒頭に「これより岸田理生アバンギャルドフェスティバルを開催します!」と宣言をした。
3団体ともに頑張ってくれて、とても面白い企画だったが、いかんせん横浜は遠く、観客の入りがあまりよくなくて、少々の赤字を背負う結果になった。
肝心のプロジェクトMの公演は「リオ/KOREA」という題名で、岸田の韓国との出会いを「迷子の天使」などのテキストをコラージュして、丸尾さんオリジナルの作品になっていた。
会場も不思議な場所で、いろんな仕掛けをして面白く仕上げてくれた。
続いて行われたアゴラ劇場の方は、まず西堂さんの近畿大学での教え子笠井友仁さんが率いるhmpという関西気鋭の劇団で、タイトルは「Rio.」という作品だ。
既に前の年に大阪は精華小劇場で上演していて、私も見に行っていたのだが、「糸地獄」などを笠井さん流に構成し直した舞台で、更にバージョンアップした新しい切り口で岸田のテキストを蘇らせてくれた。
千秋楽の前の時間を使って「水妖忌」を行い、岸田のビデオ作品を上映し、オリザさんに献杯をお願いする。
続いて行われたユニットRの公演は「吸血鬼」。諏訪部さんが台本に手を加えて、ユニットRらしい、見ごたえのある公演となった。
白庄司孝によるサックス一本の音楽、象徴的なオプジェのみが飾られたシンプルな舞台、百戦錬磨の俳優たちによって岸田の言葉が世界を埋めて行く。
そしてこの年は、私のプロジェクト・ムーによる「月・風・音・影」も上演した。
私と笠松環、米沢美和子、それにダウン症の俳優矢萩竜太郎が出演し、齋藤轍さんがベースを演奏。そこに小鼓の大家久田舜一郎さんの生演奏が加わる豪華な布陣である。
内容は岸田のテキストの断片を繋いだもので、稽古もあまりできなかったが、予想以上の好反応で、テアトロ誌で絶賛してくれた評論家もいた程だった。
最後は名古屋からやってきた双身機関という劇団が「ソラ・ハヌル・ランギット」をドメスティックに上演してくれた。
演出の寂光根隅的父(じゃこうねずみのちち)さんは、寺山修司作品を中心に活動していて、恵篤が支援していた関係で、参加してくれたのだった。
そして、これら二会場のロビーにて人形作家の水根あずさの作品展が開かれた。
彼女は岸田の作品「フォーレターズ」の時に四体の人形を作成してくれて、その後ビデオ作品「喰う女」などでもその人形が使われた、いわば岸田のお気に入りだった作家だ。
とにかくこの年のリオフェスは盛沢山で、私自身も自らの公演の他に、リーディングステージ、水妖忌など大変な作業であった。
実は芸術文化振興基金にもリオフェスとして申請していたのだが、これだけの大きな企画だったにも関わらず、残念ながら不採用でがっかりしていた。
その為、見るにみかねたアゴラの方から、「アゴラ提携ではなく、アゴラの主催にしてくれたら、若干の補助が出せます。」とのありがたい申し出があった。
おかげで、大阪とか名古屋からの参加劇団には、旅費の一部と、アゴラでの宿泊費免除などが受けられ、カツカツではあったものの、不平もでずに遂行ができた。
それでも私自身の持ち出しも多く、幸いこの時期に「身毒丸(最終公演)」「覇王別妃」と二つの商業演劇があり、脚本使用料が入った為になんとかこの苦難を乗り越えられたのだった。
そして翌年こそは基金の助成が受けられるように、こりずに、しかも少し規模を小さくして申請を行う事にしたのである。
(実はこの年リオフェスには助成してもらえなかったが、プロジェクト・ムーの8月公演の方には助成金が下りていたのだ。)
なにはともあれ、アゴラとの関係が最も良かった時期で、私が「本当におんぶにだっこで申し訳ない。」と言うと、オリザさんは「いえいえ、うちとしても既存の作家の作品を広めるという貴重な事業ですので。」との答えだった。

第二回 岸田理生アバンギャルドフェスティバル(リオフェス2008)
前年のユニットRの公演の時、長い間地元の名古屋に帰って、芝居の世界から抜けていた野口和彦が見に来ていて、「また私もやりたいな。」と言う。
「それならば次のリオフェスには是非参加してよ。」
と言うことで、この年のフェスのトップバッターは、15年振りの舞台となる、「青蛾館」の覚醒公演だった。
タイトルは「恋火」として、「日曜日のラプソデー」(雛ちゃんも特別参加)「出張の夜」(八重樫聖が特別参加)と、「恋」「火学お七」「身毒丸」などの良いとこ取りの作品だ。
まさにプロデューサーとしての野口の本領発揮。理生さん亡きあと、フェスへの参加を戸惑っていた聖が参加してくれたのが嬉しかった。
実はこの年は、前年の実績がものをいったのか、リオフェスに充分な基金の助成がおりた。(逆にプロジェクト・ムーの企画は不採択だった。)
アゴラはまた提携の形になったが、やはり条件は主催公演と同等のものだったので、各劇団ともかなりゆとりのある予算が組めたと思う。
二つ目の劇団は千賀ゆう子企画で「欲望のワルツ~岸田理生の作品群による~」とし、「料理人」「吸血鬼」を中心に、これまたいろいろな岸田作品の良いとこ取りの作品だった。
この年のフェスのキャッチコピー「私達は岸田理生を骨の髄までしゃぶりつくす所存です!」を、まさに体現したような舞台となった。
劇団の代表作「桜の森の満開の下」以外にも、こんなにも岸田の言葉を愛してくれている千賀さんに、感謝でいっぱいだった。
次の劇団はレギュラー参加のユニットRだ。
今年の演目は、リーディングパフォーマンス「ミシャグチ」というタイトルで、なんと岸田の幻想小説集「最後の子」に収録されている「柔らかい卵」を選んだのだ。
小説の演劇化と言うことで、劇団が採った方法がリーディングパフォーマンスという形になり、この手法はしばらくユニットRの定番となる。
竹広零二さんや阿野伸八さん、藤田三三三さんの語り口は、小説の言葉なのにも関わらず、生きた言葉となって想像力を掻き立てた。
最後の参加劇団は、三回目の参加となる「世の中と演劇するオフィスプロジェクトM」だ。
今年は「料理人~RIO/喰らう/kurau~」のタイトルで、本家の「料理人」に丸尾さんの言葉を加え、たっぷりとした分量の舞台となった。
小林達雄、今野真智子らを客演させて、間口の広い世界を垣間見せてくれた。
生前の岸田とはゆかりの無かった丸尾さんだが、この三回のフェス参加は、本当に頼もしいものだった。
さて、私は何をしていたかと言うと、自分の劇団の公演は基金の不採択により中止となり、フェスにも参加しなかったので、暇であった。
そこで私が考えたのは、アゴラのロビーを使って、過去の岸田の舞台写真の展示を企画したのだ。
幸い私の古くからの友人に武井勇と言う写真家がいて、彼は私の舞台(つまり私の関わった岸田理生の舞台)写真を、ひとつ残らず撮影し続けてくれていたのだ。
武井さんに相談すると快く引き受けてくれて、それから何日も彼と一緒に暗室で古い舞台写真の選択作業を行った。
残念ながら、岸田理生カンパニーの舞台や私の関わっていなかった岸田の公演は展示できなかったが、それでも大部分の公演を年代順に並べる事ができた。
アゴラのロビーはそれほど大きくはないのだが、普段はその二方向の壁に演劇関係の書物が置かれている。
アゴラの承諾を得て、そこを塞ぐ形で数十枚に及ぶ舞台写真を並べると、岸田理生の世界で埋め尽くされて壮観な眺めであった。
しかもこの作業の結果が、後に岸田理生のアーカイブ作りの重要な役割を担う事になった。
とにかくそんな余裕ができる程、基金の助成は潤沢であったし、この年から理生さんを偲ぶ会がリオフェスの主催となった。
しかし、公演後の精算はその基金への報告書の作成というかなり煩瑣な作業が待っていた。
というのも、この年から報告書の添付書類に、決算書にある各項目の一つ一つの領収書が必要になったからである。
これには慣れない劇団も多く、事前にその細々とした書類の作成について、話していたにも関わらず、取ってなかったり無くしてしまったりした領収書がけっこうあったのだ。
特に青蛾館については、野口さんの事務能力の無さが決定的で、一つ一つチェックをしてあげないと終わらない作業だった。
それでも報告書の提出が終わり、助成金が振り込まれると、当初の予定通りの金額を各劇団に振り込み、とても満足できたのだった。
そして、喉元過ぎればなんとやらで、また次の年のリオフェスに向けて、そしてそのまた次のリオフェスでの大きな企画に向かって、精力的に動き出すのだった。
つまりキム・アラさんを招聘して、新しくできる「座・高円寺」の大きな舞台での公演を、この頃から既に考え始めていたのである。

