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​リオフェスの思い出

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岸田理生さんを偲ぶ会 2003


2003年6月28日の午前、理生さんの訃報がお母さまから届いた。
しばらく返事ができないでいる私に、お母さまは通夜葬儀の詳細については、追って連絡をするとおっしゃった。
大きくため息をつき、お気を確かにお持ち下さいと伝えて、携帯を切った。
一体私は何をすればいいのだろうと、放心していると、雛ちゃんから連絡があり、劇団の関係者は私の方から電話すると言われた。
それでようやく我に返って、訃報をどこに流せばいいのかと考え始めた。
お母さまから葬儀等の詳細が知らされ、私はまず、いままでに関係のあった新聞社に連絡をする事にした。
続いて、演劇関係、映画関係、出版関係の親交のあった人達に。
その日は、その他たくさんの関係者に連絡をとる事で、あっという間に一日が過ぎていった。

通夜は岡谷の実家で遅くまで行われた。理生さんは静かに眠っていて、弔問客がいらっしゃる度に、静かに酒を酌み交わした。
かなり酔ってはいたが、お母さまから翌日の葬儀の弔辞をお願いされていたので、最寄のホテルで必死になって書き上げた。
葬儀は真言宗のお寺で、読経の合間に、いろはうたのような不思議な歌が流され、それが理生さんの葬儀にふさわしいように感じられた。
理生さんの親族に混じって、東京からも30人程の関係者が集まったが、岡谷は少し遠くて、来られなかった人もたくさんいた。
翌週、私は理生さんと最も親しかった武藤さんと雛ちゃん、それに西堂さん、諏訪部さんなどを誘って、実行委員会を作り偲ぶ会の準備にとりかかった。
なるべく幅広くの友人を呼ぼうと、思いつく限りの方々にご案内を送る。
発起人には、荒井晴彦、内野儀、太田省吾、岡本章、小田島雄志、岸田今日子、九条今日子、佐藤信、実相寺昭雄、J・A・シーザー、
谷川道子、外岡尚美、富山加津江、永井愛、西堂行人、蜷川幸雄、李清和、和田喜夫、渡辺えり子、(敬称略)にお願いをした。
武藤さんが、理生さんの詳細な活動歴を作成してくれる事になった。

そして、一か月後の7月28日、スタジオあくとれで「岸田理生さんを偲ぶ会」を行った。
和田さんが主体となって、公演ポスターなどを飾り付けた。簡単な料理とお酒も準備した。
まず私が、倒れてから亡くなるまでの経緯の報告をし、西堂さんと永井愛さんに弔辞をお願いした。
狭いあくとれに300人程もの弔問者が訪れ、一人一人に献花をしていただく。
その後、雛ちゃんのリーディング、小林達雄さんと斎藤徹さんによる「ソラ・ハヌル・ランギット」の一節の朗読、渡辺えり子さんと劇団員によるリーディングと続く。
そして、お母さまからのビデオメッセージを流して、一次会は終了した。
続いて行われた二次会では、佐藤信さんによる献杯の御発声。
「理生さんがやってきたこの演劇活動を、この後、誰が引き継ぐのか?いや、引き継げるのか?」
大杉漣さんもやってきた。京都の無門舘から遠藤さんもやってきた。
あとは延々夜中まで飲み続けた。夜中になって少しづつ人が少なくなると、私は韓国の音楽を流して一人踊り続けた。
夜も更けてから、ある友人に「宗方さんが一番近くにいたのに、ぜんぜん悲しそうじゃないね。」と言われた。
「私が悲しくない訳がないじゃない。それとも、あなたは私を泣かせたいの?」と絡むように叫んでいた。
夜が白々と明ける頃、私は最寄のホテルに仮眠をしに行った。

こうして、一回目の偲ぶ会は終わり、その後行われた実行委員会で、翌年以降行われる偲ぶ会を「水妖忌」と名付け、
岸田理生の著作物の管理・普及活動を行う「理生さんを偲ぶ会」を正式に発足する。
それまで制作として理生さんと行動を共にして来た関係で、私はその代表となった。
一周忌に向けて、戯曲集の刊行の方法についても話し合ったが、なかなか良い方法は提案されなかった。
いろいろとやるべき事は多かったが、私はまずWEBに「理生さんを偲ぶ会」のページを追加した。

岸田理生作品連続上演 2004

この企画は実は前年に行われた「岸田理生さんを偲ぶ会」の時に始まっていた。
私としては、旧劇団員やこれまでに岸田作品を上演して来た、多くの劇団などはそれぞれに追悼公演を行うものと考えていた。
だからこそ、今まで親交こそあったものの、岸田作品に触れていない若手の劇団を集めて連続上演をしようと考えたのだった。
偲ぶ会の最中に、私はまず岸田作品に共感を持っていた「紅王国」の野中さんと、「ルームルーデンス」の田辺さんに誘いをかけた。
次に「榴華殿」の川松さんにも交渉して、参加してもらう事になった。スタジオあくとれからも電気代が免除された。
そして、最後に私自身はお会いした事がなかったが、晩年の岸田の作品を手伝ってくれた「指輪ホテル」の羊屋さんにも参加を呼び掛けた。
また、旧岸田理生カンパニーのメンバーによる未上演戯曲「海鰻荘奇談」のリーディングと、西堂さん司会のシンポジウムも企画し、全容が整った。

このうち「榴華殿」と「指輪ホテル」には芸術振興基金からの助成がおりた。
他の劇団としては、あまり条件のよくない企画だったが、ほとんど不満の声が漏れて来ず、その意欲に甘える形で公演を行ってもらった。
「気鋭の4劇団、岸田理生を食す!」のキャッチコピーは、トップバッターのルームルーデンスの「料理人」に引っ掛けてのものだった。
続く榴華殿の「捨子物語」と紅王国の「火學お七」は、初期の作品でかなり難解な構造の物語だったが、とても意欲的に取り組んで頂いた。
そして圧巻だったのが指輪ホテルの「リア」である。
観客はまず本会場とは別の小さな部屋に通されて、「リア」の概略が一人の俳優と人形を使って説明される。
そして本会場に入ってからは、ほとんど岸田のセリフを使わず、指輪ホテル流の動作と行為による、まさに羊屋ワールド全開だったのだ。
父親を殺し、妹を殺し、家来も殺し、はては自分自身をも殺してしまう、リアの長女の物語を、「長崎カッター少女」の衝動と冷徹さになぞらえて遊戯にしてしまう。
まさに換骨奪胎。「どこがリアだー!」と叫びたくなるようで、実際「こんなものは岸田理生じゃない!」と思った客も多かった。
しかし、フェスが終わり、4劇団を比較してみると、なんとこの指輪ホテルが最も理生さんの精神を体現していたように感じたのである。
つまり、岸田作品の再演をただ行うよりも、その精神を受け継ぐ事こそが重要なのだと感じたのだった。

旧岸田理生カンパニーのリーディングは、未上演戯曲だったので、概ね好評で、このグループが翌年以降の「ユニットR」に続いて行く。
シンポジウムでは、参加劇団の主催者四人に加えて、太田省吾さんと谷川道子さんをゲストとして招いてお話しして頂いた。
「なんて言うか、天井桟敷系の劇団は、ほんとに死者たちに対して思いやりがあるよねー。」と太田さんは羨ましそうだった。
自分が近い将来他界して、その後、旧劇団員たちの誰がキチンと追悼してくれるのかと、心細げに想像していたのかも知れない。
また、28日に行った「水妖忌」では、蘭妖子さんのミニコンサートと、半田淳子さんの琵琶演奏に柴崎正道さんが舞踏で絡み、場を盛り上げてくれた。
この一年間に寄せられた、国内外の演劇人からの文章、メッセージを小冊子にして配った。
献杯の御発声をお願いした、映画評論家の松田正男さんが冒頭、
「いやー、今日の偲ぶ会は一年目だから本当に盛沢山で、これが5年6年とか経つと、だんだん寂しくなってねー。
神代さんの偲ぶ会も最近あったんだけど、ただ集まって飲むだけだったもんねー。来年以降もそうならないように頑張って下さい。」と言われた。
前年から考えていた「岸田理生戯曲集」は、村井健さんと而立書房のお力添えで、三冊が連続で発売された。
第一集は「捨子物語」と「火學お七」で、第二集は「糸地獄」と「料理人」、第三集は「鳥よ鳥よ青い鳥よ」と「リア」だ。
「リア」のみはこの年の夏に発売だった為に、この時点では発売されていなかったが、「料理人」「捨子物語」「火學お七」は公演に間に合って、受付でも販売された。

全行程が終了し、もろもろの精算の集まりの席で、紅王国の野中さんから提案があった。
今年は一年目だから、経済的にも厳しかったけど頑張れた。でも来年以降はせめて劇場費とか脚本使用料とかで、なんらかのフォローがないときつい。
駒場アゴラの平田オリザさんに話してみたらどうでしょう?
確かにあくとれは岸田の一番馴染みのある場所だけど、それだけの関係がありながら、ほどんど値引きもしてくれないのだ。
しかも、私が毎日行くわけではないので、各劇団とのやりとりで不具合が生じてもいた。
そこで、来年の企画を考える前に、平田オリザさんに相談してみる事にした。
なんだか怒涛のように連続上演が終わり、一息つくと、私自身が追悼公演をまだ出来ていない事に気が付いたのだった。
 

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岸田理生作品連続上演 2005

こまばアゴラ劇場の平田オリザさんは、生前の岸田と懇意にしていたおかげで、私が相談に乗って欲しいと言うと、即座に応じてくれた。
この時期アゴラは文化庁からの支援を受けていて、使用する劇団を選別する一方、企画が通ると劇場費が共催の場合無料に、提携の場合半額になっていた。
平田さんは理生さんの連続上演なら、提携でも無料にしてくれると言う。「6月末からの2週間自由に使っていいですよ。」
そんな言葉に甘えて、参加劇団を募り始めた。
まず前回に引き続きルームルーデンスが参加を表明。続いてユニットRが初参戦。
千賀ゆう子さんからは、前年の連続上演で誘ってもらえなかった事の恨み節を聞かされていて、それならばと、「桜の森の満開の下」のリーディングをお願いした。
小林達雄さんや雛ちゃんから、丸尾聡さんが参加したがっているとの話を伺い、世の中と演劇するオフィスプロジェクトMにも誘いをかける。
一方、この企画とは関係なく、流山児事務所の若い演出の方から「永遠」の上演許可願いが来ていて、11月に見に行ってみるととても面白い。
その打ち上げの席で、流山児さんから「来年の連続上演、ウチも参加させてくれよ!」と言われた。
既に3劇団の公演と1つのリーディングで一杯だったので少し待っていただき、アゴラに連絡すると、もう3日増やしてもよいとの返答。
それならばと「最後の3日間でよければお願いします。」と伝えると、「その後、自分のアトリエで追加公演するから、それで構わないよ。」との事だった。

「永遠」は理生さんが「円」の為に書いた遺作である。
そこで私は、まだ演目が決まっていなかったルームルーデンスの田辺さんにお願いして、処女作たる「眠る男」を上演してもらう事にした。
「処女作から遺作まで…。僕等の思いは続いている!」のキャッチコピーとなった所以である。
これにシンポジウム「岸田理生ー未来形で発見する」を加えて、ラインナップは完成した。
そうした動きとは別に、私自身の追悼公演を行うべく、シアタートラムの松井憲太郎さんに「糸地獄」をやらせてもらえないかと打診していた。
「来年の予定はもう決定していて、再来年ならばキャンセルが出る可能性もあるから、もし空いたら連絡するよ。」との返答だった。
そのようにして、この年の連続上演が始まった。

ルームルーデンスの「眠る男」は、アゴラを大改造して四囲を客席にして行う大胆な舞台だった。出演者の半数が20代の少女で、彼女たちの若い身体から迸る汗が新鮮だった。
対してユニットRの「夢の浮橋」は、シンプルな舞台にサックスのみの音楽で、旧劇団員たちを使った、岸田の前期の異色作をねっとりと描いたものだった。
そして、西堂さんの司会に岡本章さん、和田喜夫さん、野中友博さん、渡辺えり子さんをパネラーにしたシンポジウム。その場でえり子さんから、次回はなんらかの形で参加したいとの発言があった。
この年の水妖忌は、このシンポジウムとの抱き合わせで行われた。
続いてプロジェクトMの「鳥よ鳥よ青い鳥よ」では、「ソラ・ハヌル・ランギット」のテキストも取り込み、現在形の作品に仕立て上げていた。
そして最後に行われた流山児事務所による「永遠」が圧巻だった。
吸血鬼の話を下世話に描くやりかたは、まるで鉈で物語をぶった切るようで、この作品の唯一のテーマである「永遠」を、男と女の愛の瞬間として描く。
永遠は一瞬だ!と言い切る流山児さんの演出は、スゴイの一言だった。
ともするとガサツなイメージで語られる流山児さんだが、自身の公演直前にもかかわらず、参加劇団すべてを観に来てくれて、「フェスなんだから当然だよ!」と言い切る姿には「男気」まで感じてしまった。

そんなアゴラでの連続上演を観たある日、トラムの松井さんから電話が入った。
「来年の7月後半に一週間キャンセルが出たけど、「糸地獄」やれる?」私は大喜びで引き受けるとともに、身が引き締まるような思いだった。
なにしろ、この「糸地獄」はその構造上、大人数の出演者と二階構造の舞台が必要で、劇団でやった時も、その度にトラブルを抱える大変な作品だったからだ。
まず私は、当時の公演そのままの舞台を再現する為に、なるべく当時のキャストを使い、演出も和田さんにお願いしようと考えた。
ところが、和田さんは事前に話した時には乗り気だったのに、残念ながら演出できないと断ったのだ。
仕方なく別の演出家を考えたが、私自身が懇意にしている演出家など一人もいなくて困ってしまった。
ふと、5年程前に自分のプロジェクトで二回演出をしてもらった高田恵篤さんは、どうだろうか?と思いついた。
彼ならばトラムには常連のように出演していて、劇場機構や劇場スタッフにも精通しているはずだし、理生さんの追悼公演ならば、引き受けてくれるのではないか?
そんな私の願いが叶い、恵篤さんは快く引き受けてくれた。それから私は必死に動き始めることになった。

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岸田理生作品連続上演 2006

この年の連続上演には、たくさんの演劇人からのエントリーがあった。
今年は、なんと7作品。「疫病・岸田理生」増殖中!がキャッチコピーだ。そしてこの年から総合チラシとポスターのデザインを、岸田事務所+楽天団時代に作ってもらっていた高野アズサさんにお願いするようになった。
まず一年目の水妖忌の時に、ミニコンサートという形で歌声を披露してくれた蘭妖子さんが、改めて音楽詩劇という形で「さようならパパ」という理生さんの処女出版の詩集を上演。
この公演には万有引力のJ・A・シーザーさんが、演出・音楽として、劇団の俳優をひきつれて参加してくれた。
原作の理生さんの詩集は少女向けのファンタジックな作品で、それをシーザーが桟敷風に幻想的に仕立て上げてくれ、蘭さんのリリックな歌声が理生さんへの想いを表現していた。
次に昨年より参加している千賀ゆう子企画が、「桜の森の満開の下」を舞踏家とヴォイスパフォーマーとのコラボレーションにする。
しかも演出には理生さんの親友でもあった、韓国の女性演出家キム・アラさんを招聘するという。
この公演は事前に新潟はりゅーとぴあ能舞台でも上演し、この劇団としては最大限の金銭的リスクを負っての公演だった。
そして次は昨年に続きユニットRが「八百屋の犬」を上演。
理生さんの前期の作品を上演するというこの劇団だが、少しづつ劇団としてのオリジナルなカラーを作り上げつつあり、雛ちゃんと諏訪部さんの理生さんの作品に対する根強い拘りを感じさせた。
アゴラでの最後の劇団は、ショウデザイン舎といい、理生さんと最初に作った哥以劇場の創立メンバーだった山本健翔(葉月海彦)さんが主宰する劇団だ。
彼は哥以劇場の後、劇団「円」に入って演出をやっていて、亡くなる直前の理生さんと「三人姉妹」「永遠」などの演出もしていた。
流山児事務所が「永遠」を上演した事を受け、ならばと理生さんが流山児事務所の為に書いた「嘘・夢・花の物語」でエントリーしてくれたのだった。

そして、このあと劇場をシアタートラムに変えて、この年の連続上演はなおも続く。
私の制作するプロジェクト・ムーの公演「糸地獄」は7月末の予定だったが、7月の頭になんとルームルーデンスが同じシアタートラムが抽選であたって公演できると言うのだ。
そこで田辺さんが選んだ作品は「身毒丸」で、この作品は藤原竜也と白石加代子が演じ、蜷川さんの演出で大ヒットした、ある意味で岸田の代表作である。
白石さんの演技は鉄壁で、とても普通の女優では太刀打ちできない、と判断した田辺さんが選んだのは、「ソラ・ハヌル・ランギット」の主演を務めた、ろうの女優今野真智子だ。
そして音楽はすべて生演奏で盛り立て、しかも東京公演の前に大阪はin→dependento theatre 2ndでも公演をすると言う。
ちょうど6月28日がトラムでの仕込期間に入っていたので、私はその一日を田辺さんから又借りし、渡辺えり子さんにリーディングをお願いして、終演後に水妖忌を行う事にする。
えり子さんは、当然ながらお忙しい方で、あまり稽古時間が取れなかったが、ベーシストの齋藤徹さんとのコラボを楽しんで「メディアマシーン」を読んで下さった。
水妖忌ではトラムの松井さんに献杯の音頭をお願いし、ロビーにはたくさんのお客さんがいて、大成功だった。
とにかく、この年のルームルーデンスの意気込みは相当なもので、公演成果は大きかったが、今後の劇団に経済的不安を感じさせる程でもあった。
この年の最後の公演「糸地獄」に、何人もの若手女優を貸してくれた、ルームルーデンスの田辺さんには感謝してもしきれない程だった。

そして私自身の追悼公演として行われる、プロジェクト・ムーの「糸地獄2006」である。
前に書いた通り、当初は生前の舞台をそのまま再現するつもりだったが、演出が高田恵篤に変わった時点で、この発想をあきらめ、全く新しい形の公演をめざす。
四季の風を語る4人の糸女こそ、旧劇団員にお願いするも、主役の繭と糸屋の主人は恵篤がつれてきた。
糸屋の主人はティーファクトリーの笠木誠、そして繭役には、その頃すでに小劇場の一部では名前の知れていた吉田羊にお願いをする。
劇団時代の繭は無垢でか弱い少女として存在していたが、今回の羊ちゃんが演じた繭は戦う女性としてかっこよく存在した。
四人の男たちは、私と渡辺孝彦(潮)、岡庭秀之、そして工藤丈輝と、今考えればずいぶん贅沢な顔ぶれである。
その他の糸女はルームルーデンスの田辺さんに紹介してもらって、舞台美術、舞台監督などのスタッフはトラムをよく知っている人たちを恵篤が連れてきた。
「理生さん、いいんですか?恵篤は本気で糸地獄をぶっ壊すつもりですよ!」と私はチラシに書いた。
土曜日のマチネとソワレの間には「Rioマシーン」というタイトルのシンポジウムも開く。
ポスターハリスカンパニーの協力で、トラムとパブリックシアターのロビーに、主な岸田作品のポスターの展示も行った。
幸いこの公演には振興基金の助成もつき、恵篤の配慮でトラムの劇場機構とスタッフを最大限に活用した為に、ほんの少しの赤字で上演できた。
こうして、寄せ集めの人選だった為に、トラブルもいろいろとあったが、私としては十分満足のいく追悼公演となったのだった。
打ち上げの後「羊ちゃん、また一緒に舞台やって欲しいな。」とお願いしたが、残念ながらそれは実現せず、数年後には吉田羊の名前は全国に知れ渡り超売れっ子の女優になっていた。

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第一回 岸田理生アバンギャルドフェスティバル(リオフェス2007)

アゴラ劇場との提携は、当初3年間のつもりでオリザさんと話していたが、この年のスケジュールの話をしに行くと、この後もやれる限りやっても構わないとの申し出があった。
そんなに長期にわたってやらせてもらえるのならば、もう少ししっかりとした名称のフェスティバルにしたいと考えた私は、その場でオリザさんに提案をした。
「岸田理生アバンギャルドフェスティバル」(通称リオフェス)の始まりである。
例年通り二週間アゴラを使わせてもらい、せっかく新しい名前を付けたのだからと、もう一か所、公演会場を考えた。
実はこの数年前から横浜でバンカート(バンク+アートを縮めた名前)という、アートを中心とした活動があり、そこの中心に元S.T.スポットの岡崎さんがいたのだ。
岡崎さんに相談に乗ってもらうと「私はもうここをやめちゃうから、主宰の池田さんを紹介するわ」と言う。
旧第一銀行跡(BankART1929)と旧日本郵船倉庫跡(BankART Studio NYK)を改装してホールとしても使えるステキな場所だ。
結局池田さんに相談してBankART1929の方を一週間お借りできる事になった。
期日はこちらの方が前で、プロジェクトMの丸尾さんに見てもらうと、面白がって公演を引き受けてくれたので、その仕込の状態の一日を又借りして、もう一つの企画を考えた。
題して特別企画「アンダー30 リーディングステージ」。岸田の作品を30歳以下の3団体にリーディングしてもらい、優秀作品を選ぶという企画だ。
若い演劇人と岸田の言葉を出会わせたかったのである。審査員には和田さんと千賀さん、それに演劇評論家の江森盛夫さんにお願いをする。
そして、その冒頭に「これより岸田理生アバンギャルドフェスティバルを開催します!」と宣言をした。
3団体ともに頑張ってくれて、とても面白い企画だったが、いかんせん横浜は遠く、観客の入りがあまりよくなくて、少々の赤字を背負う結果になった。

肝心のプロジェクトMの公演は「リオ/KOREA」という題名で、岸田の韓国との出会いを「迷子の天使」などのテキストをコラージュして、丸尾さんオリジナルの作品になっていた。
会場も不思議な場所で、いろんな仕掛けをして面白く仕上げてくれた。
続いて行われたアゴラ劇場の方は、まず西堂さんの近畿大学での教え子笠井友仁さんが率いるhmpという関西気鋭の劇団で、タイトルは「Rio.」という作品だ。
既に前の年に大阪は精華小劇場で上演していて、私も見に行っていたのだが、「糸地獄」などを笠井さん流に構成し直した舞台で、更にバージョンアップした新しい切り口で岸田のテキストを蘇らせてくれた。
千秋楽の前の時間を使って「水妖忌」を行い、岸田のビデオ作品を上映し、オリザさんに献杯をお願いする。
続いて行われたユニットRの公演は「吸血鬼」。諏訪部さんが台本に手を加えて、ユニットRらしい、見ごたえのある公演となった。
白庄司孝によるサックス一本の音楽、象徴的なオプジェのみが飾られたシンプルな舞台、百戦錬磨の俳優たちによって岸田の言葉が世界を埋めて行く。
そしてこの年は、私のプロジェクト・ムーによる「月・風・音・影」も上演した。
私と笠松環、米沢美和子、それにダウン症の俳優矢萩竜太郎が出演し、齋藤轍さんがベースを演奏。そこに小鼓の大家久田舜一郎さんの生演奏が加わる豪華な布陣である。
内容は岸田のテキストの断片を繋いだもので、稽古もあまりできなかったが、予想以上の好反応で、テアトロ誌で絶賛してくれた評論家もいた程だった。
最後は名古屋からやってきた双身機関という劇団が「ソラ・ハヌル・ランギット」をドメスティックに上演してくれた。
演出の寂光根隅的父(じゃこうねずみのちち)さんは、寺山修司作品を中心に活動していて、恵篤が支援していた関係で、参加してくれたのだった。
そして、これら二会場のロビーにて人形作家の水根あずさの作品展が開かれた。
彼女は岸田の作品「フォーレターズ」の時に四体の人形を作成してくれて、その後ビデオ作品「喰う女」などでもその人形が使われた、いわば岸田のお気に入りだった作家だ。

とにかくこの年のリオフェスは盛沢山で、私自身も自らの公演の他に、リーディングステージ、水妖忌など大変な作業であった。
実は芸術文化振興基金にもリオフェスとして申請していたのだが、これだけの大きな企画だったにも関わらず、残念ながら不採用でがっかりしていた。
その為、見るにみかねたアゴラの方から、「アゴラ提携ではなく、アゴラの主催にしてくれたら、若干の補助が出せます。」とのありがたい申し出があった。
おかげで、大阪とか名古屋からの参加劇団には、旅費の一部と、アゴラでの宿泊費免除などが受けられ、カツカツではあったものの、不平もでずに遂行ができた。
それでも私自身の持ち出しも多く、幸いこの時期に「身毒丸(最終公演)」「覇王別妃」と二つの商業演劇があり、脚本使用料が入った為になんとかこの苦難を乗り越えられたのだった。
そして翌年こそは基金の助成が受けられるように、こりずに、しかも少し規模を小さくして申請を行う事にしたのである。
(実はこの年リオフェスには助成してもらえなかったが、プロジェクト・ムーの8月公演の方には助成金が下りていたのだ。)
なにはともあれ、アゴラとの関係が最も良かった時期で、私が「本当におんぶにだっこで申し訳ない。」と言うと、オリザさんは「いえいえ、うちとしても既存の作家の作品を広めるという貴重な事業ですので。」との答えだった。

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第二回 岸田理生アバンギャルドフェスティバル(リオフェス2008)

前年のユニットRの公演の時、長い間地元の名古屋に帰って、芝居の世界から抜けていた野口和彦が見に来ていて、「また私もやりたいな。」と言う。
「それならば次のリオフェスには是非参加してよ。」
と言うことで、この年のフェスのトップバッターは、15年振りの舞台となる、「青蛾館」の覚醒公演だった。
タイトルは「恋火」として、「日曜日のラプソデー」(雛ちゃんも特別参加)「出張の夜」(八重樫聖が特別参加)と、「恋」「火学お七」「身毒丸」などの良いとこ取りの作品だ。
まさにプロデューサーとしての野口の本領発揮。理生さん亡きあと、フェスへの参加を戸惑っていた聖が参加してくれたのが嬉しかった。
実はこの年は、前年の実績がものをいったのか、リオフェスに充分な基金の助成がおりた。(逆にプロジェクト・ムーの企画は不採択だった。)
アゴラはまた提携の形になったが、やはり条件は主催公演と同等のものだったので、各劇団ともかなりゆとりのある予算が組めたと思う。

二つ目の劇団は千賀ゆう子企画で「欲望のワルツ~岸田理生の作品群による~」とし、「料理人」「吸血鬼」を中心に、これまたいろいろな岸田作品の良いとこ取りの作品だった。
この年のフェスのキャッチコピー「私達は岸田理生を骨の髄までしゃぶりつくす所存です!」を、まさに体現したような舞台となった。
劇団の代表作「桜の森の満開の下」以外にも、こんなにも岸田の言葉を愛してくれている千賀さんに、感謝でいっぱいだった。
次の劇団はレギュラー参加のユニットRだ。
今年の演目は、リーディングパフォーマンス「ミシャグチ」というタイトルで、なんと岸田の幻想小説集「最後の子」に収録されている「柔らかい卵」を選んだのだ。
小説の演劇化と言うことで、劇団が採った方法がリーディングパフォーマンスという形になり、この手法はしばらくユニットRの定番となる。
竹広零二さんや阿野伸八さん、藤田三三三さんの語り口は、小説の言葉なのにも関わらず、生きた言葉となって想像力を掻き立てた。
最後の参加劇団は、三回目の参加となる「世の中と演劇するオフィスプロジェクトM」だ。
今年は「料理人~RIO/喰らう/kurau~」のタイトルで、本家の「料理人」に丸尾さんの言葉を加え、たっぷりとした分量の舞台となった。
小林達雄、今野真智子らを客演させて、間口の広い世界を垣間見せてくれた。
生前の岸田とはゆかりの無かった丸尾さんだが、この三回のフェス参加は、本当に頼もしいものだった。

さて、私は何をしていたかと言うと、自分の劇団の公演は基金の不採択により中止となり、フェスにも参加しなかったので、暇であった。
そこで私が考えたのは、アゴラのロビーを使って、過去の岸田の舞台写真の展示を企画したのだ。
幸い私の古くからの友人に武井勇と言う写真家がいて、彼は私の舞台(つまり私の関わった岸田理生の舞台)写真を、ひとつ残らず撮影し続けてくれていたのだ。
武井さんに相談すると快く引き受けてくれて、それから何日も彼と一緒に暗室で古い舞台写真の選択作業を行った。
残念ながら、岸田理生カンパニーの舞台や私の関わっていなかった岸田の公演は展示できなかったが、それでも大部分の公演を年代順に並べる事ができた。
アゴラのロビーはそれほど大きくはないのだが、普段はその二方向の壁に演劇関係の書物が置かれている。
アゴラの承諾を得て、そこを塞ぐ形で数十枚に及ぶ舞台写真を並べると、岸田理生の世界で埋め尽くされて壮観な眺めであった。
しかもこの作業の結果が、後に岸田理生のアーカイブ作りの重要な役割を担う事になった。
とにかくそんな余裕ができる程、基金の助成は潤沢であったし、この年から理生さんを偲ぶ会がリオフェスの主催となった。
しかし、公演後の精算はその基金への報告書の作成というかなり煩瑣な作業が待っていた。
というのも、この年から報告書の添付書類に、決算書にある各項目の一つ一つの領収書が必要になったからである。
これには慣れない劇団も多く、事前にその細々とした書類の作成について、話していたにも関わらず、取ってなかったり無くしてしまったりした領収書がけっこうあったのだ。
特に青蛾館については、野口さんの事務能力の無さが決定的で、一つ一つチェックをしてあげないと終わらない作業だった。
それでも報告書の提出が終わり、助成金が振り込まれると、当初の予定通りの金額を各劇団に振り込み、とても満足できたのだった。
そして、喉元過ぎればなんとやらで、また次の年のリオフェスに向けて、そしてそのまた次のリオフェスでの大きな企画に向かって、精力的に動き出すのだった。
つまりキム・アラさんを招聘して、新しくできる「座・高円寺」の大きな舞台での公演を、この頃から既に考え始めていたのである。

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第三回 岸田理生アバンギャルドフェスティバル(リオフェス2009)

前年の基金の助成に気をよくしていた私は、この年のフェスに新規参入の劇団を3つも考えていた。
一つは名古屋の劇団で「大正四谷怪談」を名古屋でやりたいと言ってきた長谷川侑紀さん率いる「劇団X」に、東京での公演としてフェスに参加しないかと呼び掛けたのだ。
二つ目は「火學お七」を三鷹の野外劇場を使って公演をした、浅沼ゆりあさん率いる劇団「害獣芝居」という若い劇団を、その意気込みに惚れ込んで誘ってみた。
三つ目は大学時代からの知り合いで、初演の「出張の夜」にも出演してくれた、林秀樹さんの「テラ・アーツ・ファクトリー」である。
こうなると、とてもアゴラの一週間では期間も足らず、別の会場をあたるしかなかった。そこで目を付けたのは古くからの友人真壁茂夫さんがやっている新装新たな「d-倉庫」だった。
この劇場はアゴラよりも一回り広く、使い勝手もよさそうで、しかもその大きさにしては劇場費も安かった。とはいえアゴラは無料なのだから、なんらかの補助はせざるを得ない。
まあ助成金があればなんとかなるだろうと思い、強行する事にした。

フェスの冒頭には、ユニットR全面協力のもと小説「水妖記」のリーディングを「水妖忌」の七回忌特別企画イベントとして行った。
実はこのリーディングに参加したメンバーには、次の年行う予定の日韓合同公演「リア」(演出キム・アラ)に出てもらう予定にしていた。
献杯の時には、来年の劇場を下見に来日していたアラさんにご挨拶を頂いたし、このリーディングには私も出演した。
そして公演のトップバッターは、劇団Xの「大正四谷怪談」だ。長谷川さんは初演出との事だったが、キャスト・スタッフに恵まれ、まるで手練れの演出家のような舞台を作ってくれた。
主役の少年はまだ若くて新鮮ではあったが、さすがに藤原竜也のようにはいかなかったが、他の三人の登場人物は達者で物語が鮮明に表現できていた。
二番手は千賀ゆう子企画による「RIOマテリアル~『吸血鬼』より~」なる構成舞台だ。
つまり昨年同様に理生さんのさまざまな戯曲の言葉を素材(マテリアル)として、一つの作品に再構成したものだった。
続いてこちらも昨年に引き続きの参加となる青蛾館が、この劇団の持ちネタでもある「上海異人娼館~チャイナ・ドール」を、小劇場の演技派俳優をたくさん使って上演した。
青蛾館には翌年の座・高円寺でフェスに参加してもらう事になっていて、どんどんリオフェスに入り込んで来てくれていたのだった。

そして場所をdー倉庫に移して、フェスはまだまだ続く。
害獣芝居の「火學お七」は野外での公演とは一味違い、室内劇として柔軟な演出をしてくれていた。
演出の浅沼ゆりあさんは、まだ若いのに集団をよくまとめていて、この劇団の今後に期待が持てる内容だった。
テラ・アーツ・ファクトリーの「マテリアル/糸地獄」は、やはり素材として言葉を使っていたが、テラ独自の絶叫系の舞台に仕立て上げてくれていた。
公演中日のマチネとソワレの間には、シンポジウム「岸田理生の実験演劇」を、西堂さんの司会、参加劇団の主宰者たち、そしてゲストには評論家梅山いつきさんを招いて行った。
「二十代、三十代、四十代、五十代、六十代・・・世代を超えた五劇団、リオのもとに集結」のキャッチコピーの通り、かなり規模を拡大してのフェスとなった。

しかしである。
この年はリーマンショックの影響もあってか、基金からの助成金が半額以下に減らされてしまい、どの劇団も四苦八苦する事になった。
事前の参加劇団による打合せで、その事を伝えると、みな揃って失望と困惑の表情を浮かべた。
千賀さんなど「その金額じゃ公演できないわよー!」と叫びだす始末だった。
しかし、全く助成金が出なければ、公演中止もできるが、なまじ少額でも助成されている以上、中止する事もできない、まさにどうしようもない状態だったのだ。
もちろんそのしわ寄せは偲ぶ会の財政も直撃した。
本当は翌年の大きな公演の為に貯めていたストックも差し出さなくてはならないし、参加各劇団にも不自由を強いなくてはならない。
最初から助成金などあてにしないで企画を作っていれば、そこまでの痛手を被らずにすんだのに、なまじ前年のように助成される事を期待していると、とんでもない事態になるのだ。
改めて助成金の怖さを知ったのだった。

なにはともあれ、こうしてフェス自体は表向き大盛況に終わった。
そして私は、すでに動き出している翌年の無謀とも言える企画に向かって、さらに邁進して行くしかなかったのだ。
 

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第四回 岸田理生アバンギャルドフェスティバル(リオフェス2014)

二年前の夏、翌年から開業する「座・高円寺」の広報担当の森直子さん(ずっと如月小春さんの制作をしていた人だ。)から、よかったらウチでやってみない?と誘われた。
この劇場はパブリックシアターの前の芸術監督だった佐藤信さんが芸術監督となった為に、森さんの他にも石井恵さんなど元パブリックのスタッフが働いていて、かなり好意的に扱ってくれた。
まだ完成していない劇場を訪ねて行くと、佐藤信さんからお話しがあって、次の年のラインナップは決まっているから、その次の年はどうかと聞かれた。
小劇場というよりはアリーナのような空間に度肝を抜かれた。客席も自由に作れるし、照明などもきれいに決まりそうだ。そんな劇場を二週間リオフェスとして使えるというのだ。
そこで私はかねてからの懸案であった、キム・アラさんに連絡を取り、岸田の作品を是非日本で上演してくれないかと打診してみた。
彼女は韓国では大きな劇場での公演が多く、日本でも小劇場ではなく、もう少し大きな空間が欲しいと言う。
そして翌年の夏に下見も兼ねて、来日すると言う。そこでフェスの前に「座・高円寺」の空舞台を下見をしてもらい、「すばらしい!」との応えを得た。
出し物は「リア」キャストは「理生の子供たち」(つまり旧劇団員)にはやってほしいが、他のキャストはオーディションで決めたい。
スタッフは舞台美術にパク・ドンウさん(彼は岸田との交流が深かった)、音楽にキム・キヨンさん(彼も岸田と交流がある)、それに衣装と映像は韓国のスタッフを連れていくとの事だ。
という訳で、このプロジェクトは昨年から、何度もミーティングを重ねていて、万全の体制で臨める予定だった。
ちなみに、このリオフェス特別企画日韓合同公演に一週間、残りの一週間はリオフェス参加劇団の中で、最も多くの集客が可能な青蛾館にお願いする事になった。

さて、そんな下準備を整えてのこの年のリオフェスである。
まずはアゴラを使っての三劇団の公演。トップバッターはフェス二回目の参加となる「ショウデザイン舎」。「鏡花讀(きょうかよみ)草迷宮」と題し、岸田の使った鏡花の部分を構成した舞台となった。
続いては、やはり二回目の参加となる「エイチエムピー・シアターカンパニー」が「Politics! Politics! and Political animals」と題して、hmp版の「リア」を上演した。
アゴラ最後の劇団は、小松杏里率いる「d'Theater」の「解体新書2010」である。
小松杏里さんは、哥以劇場の初期の時代に、一回は照明家として、もう一回は役者として参加してくれていた懐かしい演劇人だ。
その彼から連絡があり、照明家として参加していた「解体新書」の台本が見つかったので、これをフェスで上演したいとの申し出を受けたのだ。
三劇団ともにかなり面白い作品に仕上げてくれていたのだが、私はその後にひかえている「リア」の準備と稽古に忙しくて、大変失礼ながらあまり覚えていないというのが正直なところだ。

そしてリオフェス最大の特別企画「日韓合同公演 リア」である。
キャストはリア役に小林達雄、侍従役に竹広零二、道化役に柴崎正道と旧天井桟敷の蘭妖子、法師の役を私がやり、大地の母親役には米沢美和子、八重樫聖、若林カンナ、天沼佐知恵。
三女には木島弘子、家来は近藤仁吉を中心に藤田三三三、澤魁士、加藤文也、川口倫裕、主役の長女は梶原美樹を中心に大島央照、出口恵子、今村紗緒梨の総勢19人だ。
スタッフは舞台美術のパク・ドンウ氏が、左右に客席を作り、正面に階段舞台と巨大なパネル。シンプルだが劇場に合ったデザインを作る。
冒頭、キム・キヨンさんのリリカルなピアノの音が、蘭さんのボイスパフォーマンスとともに鎮魂の叫びをあげる。
入口のシャッターが上がると、そこには亡霊と化した登場人物たちが、ゆっくりと歩いて来る。そして亡霊リアの記憶が語られる。
長女とその影たち、家来とその影たちが、キャスターのついたテーブルに乗って踊りまわる。大地の母たちの石やワイングラスを使った音と踊り。
巨大なパネルに映し出される幻想的な映像。それに負けない照明と、歌とピアノの音を調整する音響。舞台監督の本弘さんも縦横無尽の働きだ。
最後に出演者全員が振り返って、まるで鎮魂の儀式のように口笛を吹いて終幕となる。その時、私は劇場の上段に理生さんの姿を確かに見た。
公演は大成功。寄せ集めだったキャスト達だが、終わった後の顔には充実感が溢れていた。観客も盛況で終演後のロビーには満足の笑顔があった。
残念ながら、偲ぶ会の財政状況が思ったよりも不足していたのと、昨年の持ち出しが響いていて、それにもまして舞台製作費(特に映像機器)にお金がかかりすぎ、膨大な赤字だった。
にもかかわらず、私は大満足だった。長年の念願だったキム・アラさんを招聘するのなら、これくらいの事をしてもいいとも思っていたのだ。

公演が終わり、次の日には水妖忌で、千賀ゆう子企画によるドラマリーディング「料理人」が劇場併設のカフェ アンリ・ファーブルで行われた。
そして次の週には、同じ座・高円寺にて、青蛾館25周年記念公演「青ひげ公の城」が上演された。
千賀さんの理生さんへの想いは十分伝わったし、野口さんの公演は青蛾館としても最大限のリスクを負う、豪華な舞台だった。
こうしてこの年のリオフェスはとても大きな収穫と、その分だけの大きな負債を残して、終了した。
私は精も根も尽き果てて、しばらくは腑抜けのような状態が続いたのだった。

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第五回 岸田理生アバンギャルドフェスティバル(リオフェス2011)

それでも、私は自身の公演(太田省吾作「更地」)を11月にやり、この年のリオフェスのラインナップも考えていた。
そして、かねてから考えていた「アナザー・リオフェス」を、2月末と3月頭にストライプハウスギャラリーで行った。
プロジェクト・ムーの荒川昌代に「雪女」を、千賀さんに「桜の森の満開の下」を、連続上演してもらったのだ。
そんな時起こったのが、あの東日本大震災である。
幸い自宅に何の被害もなかったが、直後にテレビから流れてくる津波の映像を見て、茫然としてしまった。
次の日に福島第一原子力発電所のメルトダウンが起き、何故かそれと同時に母親が脳梗塞で倒れた。
こんな時に呑気に演劇などやっている場合かと思ったり、いや、こんな時だからこそ、できる演劇があるはずだとも考えたりして、しかし、全く頭が回らない状態が続いた。
韓国のキム・アラさんからは、しばらく韓国に避難しておいでよと、再三電話があった。一人暮らしだった母親を今後どうするのかと、帰郷し兄弟と話し合った。
そんな個人的な状況を嘲笑うかのように、4月になると、振興基金の助成の内定がおりて、リオフェスは順調に執り行える事も分かった。

この年のリオフェスは二会場五作品で、今まで上演されて来なかった作品が揃っていた。
まず、アゴラが別に持っていた「アトリエ春風舎」という会場で、柴崎正道プロジェクトが「復活〈八百比丘尼伝説〉2011」を上演した。
この作品は、日本舞踊の西川緑さんの為に書き下ろしたもので、初演は芝増上寺で鈴木完一郎演出の野外劇として行われ、その後海外も含めて何度も再演されたものだ。
柴崎さんは、その初演から西川さんの相手役として出演していて、この作品には思入れが強く、現代劇として蘇らせたかったのだ。
前年にリアに出演して、また理生さんの作品をやりたくなったと、柴崎さんに打診された時、既にアゴラでのラインナップが決まっていた為、急遽春風舎を借りて追加した経緯があった。
主演の白川万紗子の新鮮な演技が光り、新作舞踊の公演時とは全くの別物に仕上がっていた。
次は会場をアゴラに移して四劇団が連続上演をする。
一つ目は、もはやレギュラー参加となったユニットRが、リーディングパフォーマンス「最後の子」で参戦。
この作品は岸田の小説集のタイトルにもなったもので、角川文庫から文庫版で出版されたSF小説(もちろんインナースペース物だが)である。
それをリーディングパフォーマンスという、この劇団お得意の形式で舞台化したのだ。諏訪部さんの演出はどんどん進化しているようだった。
二つ目は、こちらもほぼレギュラーと化した千賀ゆう子企画で、「猫とカナリア・・・と?」という作品だ。
これは千賀さんと京都の無門館の遠藤さんが、岸田に依頼して書いたオリジナル作品「猫とカナリア」をもとにした作品である。
渋谷のジアンジアンと京都の無門館で上演され、今は亡き大杉漣さんも出演していた。千賀さんとしては、どうしても再演してみたかった作品なのだった。
三つ目はAKプロデュースとして行われたリーディング体感劇「ハノーヴァの肉屋」だ。
これは、前年の精算時に小松杏里さんに、次のリオフェスの参加を打診したところ、「私は残念ながら仕事が忙しくなりそうで、できないのだが、息子のみんとがやりたがっている。」との事だった。
聞いてみると、彼はまだ演出として未熟だが、自分がプロデュースという形でサポートするから大丈夫だと言う。
それならばとお願いする事にして、こまつみんと君に演目の希望を聞くと「ハノーヴァの肉屋」がやりたいと言う。
岸田事務所+楽天団時代の代表作の一つで、そういえばまだどの劇団もフェスでやっていない。期待を込めて見守った。
作品のデキは初演出にしてはまずまず。しかし制作事務などは父親の杏里が肩代わりをしていたようだった。
最後は四回目の参加となる青蛾館が「1999年の夏休み」を上演してくれた。
この作品は金子修介監督の映画作品で、岸田が熊本映画祭でシナリオ賞を受賞したものだ。
そのシナリオを、舞台用に手直し、映画では四人の少女で演じられたものを、男優で演じるという実験劇だった。
残念ながら一人女優が混じっていて、当初の目論見通りにはいかなかったようだが、面白い試みではあった。

こうして、この年のリオフェスは、五劇団が思い思いの作品を自由に舞台化し、助成金も思い通りに出て、あまり波風も立たずに終わったのだった。
それにしても、一昨年や昨年のように大きな作品が揃ったフェスには、たいして助成してくれなくて、この年のようにこじんまりとした企画の時には十分な助成がおりる。
あまりにも皮肉な結果に、助成金を頂く難しさを改めて感じさせられたのだった。
そして私自身は冒頭に書いた個人的な理由で、新しい企画を考える事すらできない状態の一年だった。
あれだけの事件が起きたのだから、その事を抜きに舞台を作る事などできないと考えてもいたのだ。

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第六回 岸田理生アバンギャルドフェスティバル(リオフェス2012)


この年も私は大震災と原発事故の事ばかり考えていて、自身の立ち位置からの表明として「after 3.11」というシリーズを立ち上げたが、リオフェスの方はあまり積極的には動かなかった。
そのせいではないのだが、レギュラー参加のユニットRからは、諏訪部さんの都合で参加できないとの連絡が入った。
青蛾館も、あまりにも杜撰な制作体制に、私が不満を示すと、では今年はフェスには参加しないと言われた。
結局、参加してくれるのは3団体、千賀ゆう子企画と柴崎正道プロジェクトと、小松明人プロデュースだけになってしまった。
劇場もアゴラだけを使っての、最も小さな企画だった。それなのに、この年も基金の助成は潤沢であった。

千賀ゆう子企画がこの年持ってきた脚本は「唖女」だった。この作品は語りを得意とする熟年女優の関弘子さんの為に書かれたもので、DA・Mの大橋宏さんが演出してくれた作品だ。
千賀さんは関さんと長年の交流があり、既に亡くなっていた関さんを偲んで、この作品を選んだのだった。
大橋さんは私とは大学時代からの友人なので、是非一度フェスに参加して欲しい旨は、事あるごとに伝えていた。
この時も千賀さんが一緒にやりたがっていたのでと誘ってみたのだが、スケジュールの都合で断られてしまった。
それでも、関さん同様千賀さんも語りのプロなので、理生さんの言葉が心地よく伝わって来て、とても良質な舞台となった。

柴崎正道プロジェクトがこの年選んだ作品は「忘れな草」だった。
この作品はスパイラルホールの杮落しとして、山口小夜子を主演に向かえ、佐藤信さんが演出をした商業演劇だ。
初演時は他にも高畑淳子、三谷昇、村松克己、若松武、松橋登、小松方正などが出演し、豪華キャストでの競演だった。
劇団員も三人ほど脇で使ってもらったし、とにかく小夜子さんの独特な動きと妖艶な演技が際立った舞台だった。
そんな作品をどうやってアゴラでやるのだろうと、少々心配していると、なんと恵篤が出演すると言う。
本番後に聞いてみると、丁度この時期空いていたので出演する事にしたのだと言う。
他の俳優陣も頑張っていて、柴ちゃんの演出もなかなか良かった。ただ主演の白川万紗子は、小夜子さんの舞台を見てしまっている私には少々不満の残るデキであった。
まあ世界の山口小夜子と比較しては酷というものなのだが、その話を当人にするとプイッと顔を背けて座を立ってしまった。本当に申し訳ない事をしました。ごめんなさい。

最後の小松明人プロデュースが選んだのは「鳥よ 鳥よ 青い鳥よ」である。
前年の「ハノーヴァの肉屋」の演出が合格点だったので、この若者の攻める姿勢に期待していた。
内容は万有引力の役者なども使い、本水を使った舞台で、かなり面白いデキに仕上げてあった。
特に舞台美術の加藤ちかさんの力が大きく、さすが小劇場を代表する舞台美術家だと、感激もひとしおであった。
考えてみれば彼女とは舞台こそ一緒にやっていなかったものの、アジア女性演劇会議などでは、多大な協力をしてくれていたし、理生さんとも面識があったのだった。
しかし舞台成果は充実していたのに、残念ながら制作事務がこの年は父親の杏里さんではなくなっていた。
明人君の杜撰さは野口さんと同様で、精算時に書類が完成しないので、基金の報告書ができず本当に困ってしまったのだった。
その後行方をくらませた明人君、今はどうしてるだろうか?折角演出の才能はあったのに、もったいない事をしたとも思っている。

そんな訳で、この年は一会場三劇団と、小規模なフェスとなり、予算的には大成功だったものの、今後のフェスに危機を感じる結果だった。
実は、これまでも新しい参加劇団の開拓の為に、いくつかの劇団のエントリーの打診をしていたのだが、こちらが誘って参加してくれた劇団はほとんどなかったのだ。
皆さん、劇団の方から申し入れてきたり、または事前に岸田の戯曲を上演していて、その縁で参加してくれたりしたのだった。
次の年は岸田理生没後10年にあたり、なんとしてでも、参加劇団を増やさなくてはと思いながら、なかなか名案が思い付かない時期だった。
 

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第七回 岸田理生アバンギャルドフェスティバル(リオフェス2013)

この年のラインナップを考えている時、野口さんから連絡があり、またリオフェスにエントリーさせて欲しいと言われた。
私は「もちろん帰って来てくれて嬉しいけど、制作は別にキチンとした人間にやらせてね。」と答えていた。
打ち合わせに行くと、野口さんの隣で、若い少年のような人間がおどおどと座っていて、彼に制作をさせると言う。
大丈夫かなー?とは思ったが、少なくとも私の要請には答えてくれていたので、フェスへのエンドリーをお願いした。
ついでに、アゴラ以外の会場を探しているんだけど、と言うと、江戸川橋に新しい劇場ができて、そこのオーナーが岸田理生のファンだと言う。
ということで、絵空箱を訪ねて行くと、オーナーの吉野翼さんが快く迎え入れてくれた。普段はバーとして飲食店としても営業している、暖かみのある空間だ。
吉野さんは、高校時代に理生さんの脚本と出会い、そこから演劇を始めたのだという。だからリオフェスで使うのだったら、格安で貸して頂けるとの事だった。
それと、絵空箱企画としても今年のフェス連携として「糸地獄」を上演したいとも言う。

続いて雛ちゃんから連絡があり、ユニットRも今回は参加したいとの事だった。
なんとなくラインナップが見えてきたし、没後10年と言う事もあり、シンポジウムもやりたいなと思い、西堂さんに打診をしてみた。
すると、シンポジウムをやるのはいいけど、だんだんリオフェスもマンネリ化してるよね。もう少し若い劇団にも参加してもらったら?と言う。
どこか目ぼしい劇団ご存知ですか?廻天百眼という劇団があって、そこの石井飛鳥という女性の演出が、昔の東京グランギニョルみたいな面白い舞台を作ってるよ。
じゃあ、一度会って話してみますね。今年は参加無理でもシンポジウムだけでも出てもらったらどうかな?
という訳で、石井さんにお会いすると、女性ではなく男性であったが、観客をどんどん伸ばしていて、まさに上り調子の劇団のようだ。
そこで、来年のフェスへのエントリーと、今年のシンポジウムへの参加をお願いした。

この年のトップバッターは中野テルプシコールを使って、柴崎正道プロジェクトが「メディアマシーン」を上演する。
昨年の「忘れな草」とは打って変わり、ハイナ・ミュラーのテキストから、理生さんが劇団「太虚(たお)」の為に書き下ろした詩劇である。
そこで柴ちゃんは、舞踏家、ダンサーを主に使い、メディアの語りを私達の旧劇団員だった友貞京子にやらせたのだった。
友貞さんはそつなくメディアをこなし、舞踏家、ダンサーの不思議な動きとともに、メディアの苦悩と欲望を表現していた。
次に3劇団がアゴラで公演をする。まず、二年ぶりのユニットRが「ウロボロスの輪」と題する作品を上演。
これは最初の岸田理生作品連続上演の時に、旧劇団員を使ってリーディングをした「海鰻荘奇談」を諏訪部さんが加筆して芝居にし直した舞台だった。
「海鰻荘奇談」は香山滋の幻想小説を、岸田が脚本化してパルコ劇場で上演される予定だったもので、結局お蔵入りしてしまった未上演戯曲だ。
岸田が最も脂の乗っていた時期の作品だけに、壮大で幻想的な世界なのだが、ここでは音楽や美術に頼らなくて、言葉だけで充分に広がってゆくような舞台となった。
次は千賀ゆう子企画の「桜の森の満開の下」で、もはやリオフェスでも、おなじみの作品だ。
今回は岸田の他の作品も織り交ぜながら、独特のリオワールドを展開してみせた。28日の公演終了後に「献杯」を行い、これをもって水妖忌とした。
アゴラ最後は青蛾館の公演で、実験リーディング「岸田理生を読む。」だった。
野口さんは、フェスへの参加は決めたものの、何をどうやるか直前まで迷っていて、結局「吸血鬼」と「身毒丸」「出張の夜」を3チームに分けて上演したのだ。
膨大な力業で、ちょっと欲張りすぎな感じがしたが、デキそのものは百戦錬磨の俳優陣によって、水準を超えていた。
中でも流山児事務所の伊藤弘子の「身毒丸」の撫子役は、本家の白石加代子とは違うキャラクターながら、十分に見ごたえのある演技だった。
実はうかつにも私は彼女の存在をそれまで知らず、あまりの衝撃に、思わず観客として見に来ていた友貞さんに紹介してもらったのだった。

そしてこの年は連携企画として、絵空箱企画による「糸地獄 断章 男娼」も吉野さんの演出で上演された。
登場人物の男女を逆転させて、女たちが糸と色を操る男娼の世界として再構成した、実験的な作品だった。
また、青蛾館の公演中にシンポジウム「岸田理生の血縁を受け継ぐ者たち」が開かれ、西堂さんの司会のもと、野口和彦さん、石井飛鳥さん、演劇評論家の梅山いつきさんが発言をした。
こうして、一度は収束の体を見せかけたリオフェスだったが、みごとに復活を果たし、未来への展開も見えてきたのだった。
水妖忌の時、私は宣言した。「ここまで10年間リオフェスを支えてくれてありがとう!この際、私はもう10年リオフェスを続ける事を決めました!」

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第八回 岸田理生アバンギャルドフェスティバル(リオフェス2014)

もう十年リオフェスを続けると大見えを切ったものの、私の中では3.11が尾を引いていて、それ以外の事を考えるゆとりはなかった。
しかし、原発事故から3年が経ち、避難生活を続けている人たち以外からは、原発への関心は薄れていった。
私もその例外ではなく、どんな立ち位置であの事件を捉えればいいのか、記憶を風化させない為にはどんな表現ができるのか、悶々としていたとも言える。
ところがいざリオフェスへのエントリーを募ってみると、驚くことに7劇団もの参加表明が得られたのだ。

まずは第一会場として絵空箱で3劇団が上演をする。
トップバッターは昨年連携企画として参加してくれていた吉野翼企画が、岸田の処女作「眠る男」を、演劇的セパレートパフォーマンスと銘打って上演。
確かに舞踏家、パントマイマー、コンテンポラリーダンサーは登場するわ、、ギターやピアノの生演奏は行われるわで、演技陣と絶妙のコラボレーションを魅せていた。
日々たくさんの表現者たちが集まる「絵空箱」の、店主である吉野さんならではの表現形式で、その新鮮さはいままでのリオフェスにはなかったものだった。
次にテラ・アーツ・ファクトリーが「デズデモーナ」を上演。
この作品は岸田とオン・ケンセンのコンビで行われた、「リア」に続く二作目の共同創作作品である。
主軸の「デズデモーナ」以外にも「ダナイード」「歳月の恵み」などの言葉をちりばめ、この劇団特有の抽象的な世界観を現出してくれた。
続いては、柴崎正道プロジェクトが「ダナイード」を上演。
この作品は「シアターグループ太虚(タオ)」という劇団の為に書かれた作品だ。
旧スコットの劇団員で、「糸地獄」オーストラリア公演にも出演してくれた、高山春夫が言葉を担当して、韓国からヤン・ヘギョンという女優も参加した。

そして第二会場のこまばアゴラ劇場でも3劇団が上演をする。
まず、千賀ゆう子企画が「桜の森の満開の下」で再び参戦。
この時は、初演直後から演出をしてくれていた笠井賢一さんに演出をお願いして、初心の原点に返っての上演だった。
千賀さんは長い闘病のせいもあったが、年齢も徐々に老境に達しており、まさにこの作品の語り手の老婆にピッタリの円熟した演技を見せてくれた。
そして次は昨年のシンポジウムにも参加してくれた石井飛鳥率いる「虚飾集団 廻天百眼」である。
女の情念を描いた「臘月記」を、この劇団流のスプラッターな演出で料理してくれたのだが、若い女優陣が岸田のセリフをなんなくこなしていてビックリした。
やはり理生さんは女のセリフを書かせたら天下一品で、それは若い女優たちにも有効なのだと改めて認識させられた。
アゴラ最後に控えるのはユニットRで、この年は「私たちのイヴたち 蝕(しょく)」と言う作品だった。
これは「演劇集団 風」の為に書かれた作品で、大杉栄や辻潤、神近市子、堀保子、伊藤野江、甘粕正彦などが登場する、歴史群像ドラマだ。
諏訪部さんは、歴史資料から新たな発見をしたそうで、それを元に物語を少し変更したのだそうだ。

最後に控えていたのが、渡部美保プロジェクトによる「羊の住処」で、プロト・シアターを第三会場として行われた。
この作品は「唖女」を原作として、なんと大橋宏が演出をするという。
大橋さんには、以前からフェスへの参加を呼び掛けていたので、それを聞いて大歓迎だった。
韓国からも俳優を二名招聘し、初演とは少し色の違った舞台に仕上げてくれた。もちろん元DA・Mの劇団員だった渡部さんも大橋の演出に見事に応えてみせた。

そのようにして、この年は大盛況のリオフェスとなったのだが、フェスの真っ最中に不幸な情報がもたらされた。
それは千賀ゆう子企画を見に行った時である。終演後会場には西堂さんがいて、少し話をしていると、突然言われたのだ。
「おれは今年で基金の選考委員をやめちゃうけど、ちょっとそろそろリオフェスへの助成は危ないかもしれないよ。」
「なんか、演劇としての評価より、費用対効果とか観客動員とかの理由で落とされるケースが増えているんだよねー」
ガーン!そんなー!である。やっとこれから、もう十年フェスをやっていこうと思っていたのに、それはないよー!
翌年のフェス開催に黄信号が灯った瞬間であった。

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第九回 岸田理生アバンギャルドフェスティバル(リオフェス2015)

もう十年もフェスを続けてきて、まだどうしてもやりたかった企画があった。
それは「岸田事務所+楽天団」時代の三年間を通して上演してきた「昭和の恋 三部作」だ。
もちろん各劇団の作品候補には挙がっていたのだが、どうせやるのなら、三本連続公演にしたかったのだ。
この年の目玉として、まずはユニットRに相談してみると、「恋 其の壱」ならやりたいとの返事。
続いて吉野翼企画に問い合わせると、では「恋 其の弐」をやりましょう、との答えを得た。
「恋 其の参」をどこか引き受けてくれる劇団がないかと探していたのだが、運よくテラ・アーツ・ファクトリーが手を挙げてくれて、三作品の連続上演が決まった。
もちろん、前年のフェス中に得た、基金の助成がなくなる可能性が高いという情報を伝えた上、もし助成が受けたければ、劇団の方で手続きをしてほしいと頼んでもいた。
他の参加劇団にも同様の条件の変化を伝えていたのだが、三劇団からエントリーの要望があった。
そして、私自身も悩んでいた原発問題にけりをつける為に「料理人 第二章」で参加する事にした。

まず、こまばアゴラ劇場でユニットRが「恋 其の壱」を上演した。
この劇団は毎年のリオフェス参加で、座組がしっかりと固まっていて、しかも岸田事務所+楽天団時代の俳優も多く、なんなくこの戯曲を体現して見せた。
もちろん初演時とは全く演出を変えて、この劇団特有のリーディングに近い上演で楽しませてくれた。27日には終演後に「水妖忌」として献杯もさせてもらった。
続いては、やはりアゴラで吉野翼企画が「恋 其の弐」を上演した。
この劇団もだんだんとリオフェスでの演出方法を習得して来ていて、パフォーマンスのようにしてこの作品を蘇らせた。
特にコンテンポラリーダンスとポールダンスが、独特な世界観を現出していて、全く新しい作品にしてくれた。
「恋其の参」は場所を絵空箱に移して、テラ・アーツ・ファクトリーが上演した。
この劇団もやはり初演時とは異なる構成にして、劇団カラーを全面に押し出しての公演だった。
演出の林さんとしても、この戯曲の「乱れた日本語」は、昔の自分の戯曲にも通じたらしく、懐かしく面白がって上演してくれたようだ。
次の作品は千賀ゆう子企画で、演目は「Dance/歳月の恵み」だった。
この作品はタイニイアリスの企画による日韓合同公演で、李潤澤(イ・ユンテク)の演出により、東京、ソウル、ニューヨークで初演されたものだ。
この時期の千賀ゆう子企画に何度も客演していた、旧状況劇場の田村泰二郎と千賀さんのセッションは壮観であった。

そして、久しぶりに参加となる、私自身のプロジェクト・ムーの公演「料理人 第二章」である。
3.11後2年間、ずっと原発問題を考えてきたのだが、答えも見えずに悶々としていた私にとって、原発事故後の世界を描いたこの「料理人」は、もう一度基本に戻る台本だったのだ。
震災前に「横浜キッチン」という作品で、既に一応の答えを出していたのだが、やはり実際の原発事故を経験してからの答えは自ずと違ってきて、そのケリを付けたかったとも言える。
私の演出能力のなさを、開座の岡庭秀之さんがフォローしてくれて、なんとか恥ずかしくない作品に仕上がった。
最後に柴崎正道プロジェクトが「カルテット」を、場所を「brack A」という新しい会場に移して公演した。
残念ながら、プロジェクト・ムーと公演の時期が重なってしまい、私自身初めて参加作品を見られなかった公演となった。
「カルテット」はラクロの小説をハイナ・ミュラーが再構成したもので、谷川道子さんが翻訳をして理生さんが演出をして日本初演した作品だ。
後にビデオで見た限り、柴崎さんの一人パフォーマンスなのだが、独特の世界観を現出して見せていた。
そんなこんなで、この年は基金の助成がないにも関わらず6劇団もの参加があって、盛大なフェスティバルとなったのである。
しかし、参加各劇団独自に基金への申請は行われる事がなく、いささかもったいないとの感じもした。

そこで、私は翌年はプロジェクト・ムーとして基金の助成を受けるべく、少し大きな企画を考え出した。
それは、理生さんが、倒れた時に企画していて、結局脚本を書く直前に倒れた為に、実施する事のできなかった、「安保-花咲けるオカマ達」をいうタイトルの作品だ。
当時の参加予定者は、旧転形劇場の品川徹さんと、旧早稲田小劇場の新健二郎さん、元祖演劇の素の土井通肇さん、そして一緒にやってきた小林達雄さんだ。
この四人の老優に諏訪部さん、竹広さん、雛ちゃんと私が周辺の役をやって上演する予定だった。
そこで、まず小林さんに相談すると、快く受け入れてくれ、脚本を書いてくれそうな、福田光一さんを紹介してくれた。
土井さんにも相談すると、私は出演できないけど、演出はキチンといた方がいいよ。大橋さんなんかいいんじゃないの?との助言をくれた。
大橋さんに聞いてみると、その時期は丁度空いているので引き受けると言ってもらった。
新さんは既に亡くなっていたので、品川さんにオファーしてみたが、難聴の状態がひどくて、舞台はもう無理だと言われてしまう。
そんな手探りの状態ではあったが、この福田、大橋、達雄さんと私を中心とした座組は、この後4年間の充実した舞台作りとなって、幸福な時間を与えてくれる事になるのだった。
 

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第十回 岸田理生アバンギャルドフェスティバル(リオフェス2016)

この年の参加予定は、ユニットRと吉野翼企画、千賀ゆう子企画、それにプロジェクト・ムーの4劇団が決まっていた。
前年参加のテラ・アーツ・ファクトリーと柴崎正道プロジェクトは、やはり基金の助成がないと経済的に厳しかったようで、参加ができなくなってしまった。
そこで、吉野さんにリオフェスに参加してくれそうな、新しい劇団がないかと打診してみると、「おででこ」の須川弥香さんを紹介された。
これで5劇団参加となり、フェスとしての恰好がついた。
なんでも須川さんは、京都の山奥に実家が大きな敷地を持っており、そこでフェスティバルのようなモノを企画しようとしていて、これも次の機会には連携できるかも知れないと思う。

プロジェクト・ムーの公演は、運よく基金の助成が内定し、とりあえず予算の心配はなくなった。
肝心の内容は「安保はつづくよとこまでも」のタイトルで、福田光一さんが書き下ろしてくれた。
演出の大橋宏さんは、長年の付き合いがありながら、演出として一緒に作業するのは初めてだった。
なので、福田さんと大橋さん、それに私で何度も打ち合わせをした。前年に起きた国会議事堂前の集会の事もたくさん話し合った。
キャストも一から考えなくてはならず、小林達雄さんに相談すると、水谷ヒサヤさん、金堂修一さん、奥田武士さん、本谷由乃さん、と次々に紹介してくれた。
大橋さんは、自分の劇団の時とは違って、この寄せ集めのキャストを融通無碍に操って、全く別の顔を見せてくれた。なんと演技指導までしてくれるのだった。
初日の公演終了後に献杯をして、これを「水妖忌」とした。
フェスの一番手として上演したこの作品は、かなりのインパクトを客席に与え、リオフェス十周年特別公演に値する公演となった。

二番手はユニットRで「眠らない男」と題し、理生さんの処女作「眠る男」と「ワークショップ 凧」を原作とした作品だ。
諏訪部さんの演出のもと、芸達者な役者たちが遊んでいて、観念的な言葉を咀嚼しやすくしていた。
ほとんどのメンバーが継続して参加できているのは、多少家内手工業的な匂いがあるものの、その団結力は強く、これも諏訪部さんと雛ちゃんの人柄によるものなのだろう。
もともとリーディングから始めたユニットなので、舞台が風通しの良いものになっていて、安心して見ていられる。
三番手は初参加の「おででこ」で、主宰の須川さん自身の演技が素晴らしく、亡き岸田今日子さんを思わせる匂うようなエロスを感じさせた。
作品は「火學お七」で、初期の作品特有の観念的な部分に手こずってはいたものの、満足のいく舞台成果だった。
来年は京都の芦見谷という場所でフェスを開催するようで、リオフェスもなんらかの形で提携できたらと思った。
ここまでは、こまばアゴラ劇場で行われ、この後、会場を絵空箱とストライプに移す。

絵空箱では吉野翼企画が「詩稿・血を嚙(は)む。-吸血鬼・男色大鑑より」と題して、耽美的な舞台を繰り広げる。
吉野さんは自身の劇場という地の利を活かし、いままでの舞台よりも過激に美しく吸血鬼の世界を描いてみせた。
多分吉野企画としては、ここまでフェスに参加した舞台の中で、最も優れた舞台となった。

そしてこの年最後の作品は千賀ゆう子企画による「ラブレター」である。
実は二年前くらいに、千賀さんに私は理生さんの書いた日記を預け、これを舞台化できないかと持ち掛けていた。
それは、シンガポールのオン・ケンセンへの思いを綴った数日間の日記で、私自身も読むのがためらわれていたモノだった。
千賀さんも悩んだ末、今回舞台化してくれたモノだったのだ。
「リア」のセリフの合間合間に、日記に書かれた散文を挟み込み、単なる恋文を舞台表現にまで高めてくれた。
後日、ある観客から、あんな作品やっていいの?ケン・センに見つかったら怒られるよ!と言われた。
でも、私としては、そんな理生さんの日常も含めて演劇活動だったのだから構わないと答えていた。
「それに、舞台なんだから、ケン・センは実物を見る事はできないよ!」

そんな風にしてこの年も盛況のうちにリオフェスは終わったのだった。
大橋さん、福田さんとのプロジェクト・ムーでの充実した時間、芦見谷フェスへの期待、そして参加劇団の成熟。
助成金は下りなくても、参加劇団のやる気は持続している。
この盛り上がりがある限り、フェスの継続は間違いないとの確信を持つことができたのだった。

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第十一回 岸田理生アバンギャルドフェスティバル(リオフェス2017)

この年はまずこまばアゴラ劇場で、吉野翼企画が「血花血縄」というタイトルで、岸田が有沢美喜の別名で書いていたSM小説の舞台化に挑戦する。
岸田は初期の頃、収入の道として、さまざまな文章を書いていた。
新書館では少女向けの詩集やカイ・ニールセン等の翻訳、竹書房では麻雀劇画の原作を書き、SFマガジン誌にはインナースペースの小説を書き、SMスナイパー誌にはSM小説を書いていた。
もちろん本業の戯曲の傍らに書いていたのだが、それぞれ力のある作品で、特に官能小説にはファンも多く、寺山さんにも羨ましがられたという。
そんなSM小説を舞台化できるとしたら、前年の「吸血鬼」で耽美的な舞台を作り上げていた吉野翼企画しかないと思い、吉野さんに原本を二冊ほど預けて挑戦してもらったのだ。
ともすれば下世話なストリップショーになりがちな内容なのだが、知的な観念言語が混じり合って、実に高尚な表現にしてくれた。
そして最後には血で繋がった女たちの物語になり、まるで「糸地獄」となってしまうのだった。
多分女優達を納得させるのに、多大な苦労もあったことだろうが、女たちの反乱劇として昇華していて好感が持てた。

次はユニットRが「ドア」のタイトルで、岸田事務所+楽天団時代の最後の公演「隠れ家」を再現した。
例のごとく安定した演技陣とシンプルなスタッフに支えられ、諏訪部さんの演出も冴えわたる。
若干マンネリ化の誹りはあるものの、難しい作品をキッチリ作り上げてくれていた。
28日には終演後、献杯をして「水妖忌」とした。

アゴラ最後の劇団は二回目の参加となる「おででこ」で、今回は「宵待草」に挑戦した。
この舞台を中心にして、京都の芦見谷芸術の森の野外でも公演をするという。
「URARA」が「吸血伝説」を、そして世田谷表現クラブが「リオさん、お元気ですか?」を、他にも音楽家や舞踏家などがパフォーマンスをして、「リオフェス in Kyoto」が実現する。
「宵待草」はとても良いデキで、特に須川さん演じる待つ女は独特の色気とひょうきんさを滲ませ、すごい女優だと感じさせた。

次はストライプハウスギャラリーで、千賀ゆう子企画が「シアターワーク」のタイトルで、昨年同様「メディアマシーン」と日記を織り交ぜた作品を上演した。
こうして二年続けて、日記と作品の混在する上演を見せられると、まるでそれは一つの定番のようにも思えてきて不思議だ。
光冨さよによるインスタレーションも華麗でステキだった。

そうして、今回の目玉プロジェクト・ムーの野外劇「新・盲人書簡」である。
会場の西戸山野外円形劇場は、実はプロジェクト・ムーとして20年近く前に、三年間にわたり使わせてもらった会場だ。
今回使うには一からの交渉が必要で、残念ながら今回は助成金も下りず、大変な苦労の連続だった。
めげそうになる私に大橋さんは「助成金が下りないなら、逆にやる気が湧いてきた」などと言われ励まされた。
演出の大橋さんは、早稲田新劇場を名乗っていた時期、野外劇をよくやっていて、どうしても大橋さんにもう一度野外で演出してもらいたかったので、すごく嬉しかった。
本当はこの舞台を持って、京都フェスにも行きたかったのだが、これはどうしても移動費がかかるので諦めて、代りに「世田谷表現クラブ」での参戦となった。
肝心の舞台の方は、最高のデキで、磯崎新デザインの高層マンションを借景として、夢と現が錯綜していく。
仙葉由季の入れ墨を裸火が妖しく照らし出す幻想的な舞台となった。小林達雄の老いた小林少年も老練な演技で、小山亜紀の歌声が中空に響き渡る。
限られた予算の中で、音響は大橋自身が担当し、照明も石田さんの心意気でほぼ無償での参加となり、大幅な赤字は回避できた。

そして、最後に控えていたのが、リオフェス in Kyoto だ。
広大な敷地を須川さんのお父様が自力で切り開き、母屋以外に山小屋やキャンプ場も作られていて、周りは巨大な杉の森だ。
その真ん中に小さな川が流れていて、川の音とひぐらしの鳴き声の響き渡る、とても心が洗われる空間だった。
「宵待草」は野外向けの作り直しには、時間が足りなかったのか、少し不自然な部分もあったが、それはそれでおおらかに見られてしまう、やすらぎの里なのだ。
URARAも一人芝居で「吸血伝説」という小説を語るのだが、さすが路上演劇で鍛えた技で、なんなく野外に馴染んでいた。
世田谷表現クラブにいたっては、普段のワークそのままで、ほとんど稽古もしていないのに、なんだかウキウキワクワクしてしまうような舞台となった。
最期に「リオさん、お元気ですか?この表現クラブは、あなたと作ったどの劇団よりも長く続いていますよ。」と客席上の空に向かって叫んでいた。
テアトロ誌上で岸田理生研究の第一人者の岡田蕗子さんが、このフェスの事を好意的に書いてくれたのも収穫の一つだった。
こうして、この年は一切の助成もなかったが、とても充実したフェスとなった。

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第十二回 岸田理生アバンギャルドフェスティバル(リオフェス2018)


前年の野外劇を見に来ていた吉野さんから、自分の劇団もこんな野外で一度やってみたい!とうらやましがられた。
そこで、西戸山の担当者に紹介して、吉野企画としても、野外円形劇場での公演が決まった。
内容は「新譚 糸地獄」で、擂り鉢状の客席を舞台として、逆に広場の方に客席を並べ、観客は見上げるようにして観劇するという、離れ業だ。
野外にはお決まりの巨大な松明二台を焚き、糸女たちが階段状の舞台に様々な姿態で寝そべる。
主人役の野口さん(青蛾館としては参加しなくなった彼は、やはり理生さんの言葉をしゃべりたくなり、客演していた。)の迫力の演技で、空間を威圧する。
隣を走る山手線と埼京線の轟音に悩まされる会場なのだが、客席と舞台を逆転させると、あら不思議、言葉がしっかりと聞こえるのだった。
とにかく、この場所は広域避難所にもなっているので、セットも照明も毎晩バラさなくてはならなくて、スタッフからは相当文句も言われたようだが、
いつもより大きな会場を使っての公演に、吉野さんも満足した様子だった。

続いて、千賀ゆう子企画がストライプハウスギャラリーで、「桜の森の満開の下」を上演する。
千賀さんはもう10年以上前に乳がんに侵されていて、一度は完治したものの、また転移が見つかって、そこからもう数年を生き延びて来た。
そんな闘病を押しての参加に、周りの人間たちも心配したようで、数人の劇団員がフォローしながら見守るという不思議な舞台だった。
しかしそんな千賀さんは足元こそ少しおぼつかないのだが、体はシャキッとして声もよく通る。
その死を見つめながらの演技は鬼気迫るものがあって、見るものを圧倒するのだった。
そして残念ながら、これが千賀ゆう子企画の最後のフェス参加となってしまった。合掌!

続いて会場をアゴラに移し、ユニットRが「プラックマーケット1930」のタイトルでハノーヴァの肉屋を上演する。
相変わらず安心できる舞台で、28日の公演後には献杯をして「水妖忌」とした。
内容は大変面白かったのだが、この時、アゴラとの間でちょっとしたトラブルがあったらしく、終わってからオリザさんからの呼出しがある。
実はこれまでも、参加劇団の中に劇場でやる時のさまざまな不備やトラブルがあったので、今回もそのお話しだった。

それはともかく、フェスの方はまだまだ続く。
URARA×村上裕公演「雪女~SNOW WOMAN」が、ストライプハウスギャラリーとKOGANE ART SPOTで行われた。
URARAの語りに村上の破壊的な音楽が重なり、普通に想像する「雪女」とは全く異なり、不思議な世界観を表現していた。
お客さんの中にはウルサくて、それだけでダメな人もいただろうが、その騒音のような音世界の彼方に、雪女の悲しみや無常観が漂い、私には好感が持てた。

次は昭和精吾事務所が、渋谷の「サラバ東京」というライブスポットで「七七火-なななぬか」と題し、寺山さんの叙事詩と理生さんの「火學お七」を二部構成で上演した。
昭和さんの定番だった「われに五月を」は、こもだまりさんとイッキさんにしっかりと継承されていて、非の打ちどころのないものだった。
「火學お七」の方は、映像と語りと音楽で不思議な世界を作り出しているのだが、ちょっと未完成な感じがした。
でも、マイクを通しての岸田の言葉は、意外にも親和性を伴って観客に届くものだという事が新発見だった。

そして、この年の目玉、プロジェクト・ムーの「SORA-私たちはどこから来たの?どこへ行くの?」である。
昨年の公演が終わって、しばらくは立ち上がれない程疲れていたのに、ほんの一か月もするとまた野外公演をやりたくなっていた。
そこで今回私が提案したのは、岸田理生カンパニーとしての最終公演「ソラ ハヌル ランギット」だった。
まず演出の大橋さんがプサンのチャガルチ市場(なんと路上で)アジア・ミーツ・アジアの公演をするというので、脚本の福田さんと一緒に見に行ったのだ。
わずか二泊の旅だったが、韓国側のホスピタリティが温かく、公演前日と公演日の夜の宴会に混ぜてもらってとても気持ちが大きくなっていた。
そこで、終演後の飲み会の後、私の「ソラ ハヌル ランギット」の構想の話をしたのである。
帰国後、たくさんの話し合いの結果、インドからニタン・ナイールという若い俳優を招聘する事になり、昨年好評だった音楽の小二田さんと歌手の小山さんに加え、トランペットの金子さんを誘う事になった。
開場中からニタンが歌を歌ったり、パンジャブ語で客席に話しかけたりしている。
そこにトランペットの響きとともに、大量のペットボトルが投げ込まれる。そんな始まり方をしたこの舞台は、さまさまなごったまぜの演者によって彩られた世界だった。
照明や音響こそ、スタッフを雇わず自前で行い、その労力も大変なものであったが、全く新しい世界を作り上げたという自負と喜びの中、終演した。
基金からの助成もでていたが、それは海外からの招聘者への渡航費交通費滞在費に回り、結局かなりの赤字になってしまったが、わたしの中では最も充実した舞台の一つとなったのだ。
 

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第十三回 岸田理生アバンギャルドフェスティバル(リオフェス2019)

この年も参加希望の劇団が多く、吉野翼企画、プロジェクト・ムー、ユニットR、昭和精吾事務所、それにURARAさんが二本、新たに北海道からの参戦で風触異人街がエントリーした。
まずは吉野翼企画が北千住BUoYというスペースで「疫病流行記」を上演する。
この作品は天井桟敷で寺山さんと理生さんの共同台本で初演されたもので、テラヤマワールドの笹見さんの了解を得て行った。
まだコロナ感染が始まる前の公演だったのに、疫病についての公演をするなんて、まるで一年後を予見したような公演だった。
あいにく私は、同じ期間にプロジェクト・ムーの公演があったので、本番を見る事ができなかったが、ビデオで見る限りかなり先鋭的な舞台だったようだ。

そして同じ期間にプロジェクト・ムーでは「アリス採り」という作品を、プロト・シアターで上演する。
実はこの年も前回同様、野外円形劇場での公演を考えていたのだが、前年に周辺住民とのトラブルもあり「やっぱり野外はシンドイわ!」という参加者からの意見もあり断念したのだ。
しかし、このプロト・シアターは大橋の持ち小屋なのだが、いつもの大橋とは違うエンターテインメントの演出を大橋に求め、了解を得たので、意義ある公演となった。
冒頭、役者たちによるしりとり遊びがあり、目覚まし時計のベルとともに舞台に飛び込んだ私が「遅刻だー!」と叫ぶ。
すると照明が幻想劇な明かりに代わり音楽が流れ、役者たちはスローモーションで椅子を持ち上げながら、まるで奈落に落ちていくような演技をする。
私一人突っ立ったまま客席を眺めていると、一番奥の席に座っていた女性が、喜んで小さな拍手をしているのが見えた。
この瞬間こそ、芝居をやってきて良かったと思える至福の時間なのだと思った。
最期には世田谷表現クラブのメンバーも巻き込み、カオスとなった世界を作り上げ、再び目覚まし時計の音と「遅刻だー!」で終わる。
基金の助成もあり、この歌ありダンスありのブラックエンターテインメントは、大橋・福田コンビの集大成のような舞台となった。

次はユニットRが「ラビリンス」のタイトルで、恋其之参を再構成して、スタジオあくとれで上演した。
あくとれは岸田事務所+楽天団時代の本拠地で、懐かしい思い出とともに居心地のいいお芝居に仕立ててくれた。
カナダからコリーン・ランキという女性も日本語で出演した。彼女はハワイ大学で「糸地獄」のリーディングもしてくれていたりする研究者だ。

続いて、アゴラに会場を移して三劇団が上演する。
まず昨年も参加したURARAが、「雪女」を昨年とは別のモノドラマとして再創作したものだ。
「雪女」のまた違った上演は、今後さまざまな形での上演を予感させるアバンギャルドな舞台だった。

次は昭和精吾事務所が「水鏡譚」のタイトルで、昨年同様寺山さんの詩劇「われに五月を」と、理生さんの「草迷宮」を二部構成にしてアゴラで上演した。
相変わらず寺山さんの詩劇の方は、これまでの経験を活かして素晴らしいデキだったが、「草迷宮」の方は、ちょっと長くてこなれていない感じがした。
来年こそは理生さんの言葉を自分たちのものにして、この劇団の決定版を作ってほしいと思った。

次もアゴラを使って、風蝕異人街が「メディアマシーン」を上演する。
この劇団の主宰の三木美智代さんは、岸田事務所+楽天団の最後の世代の新人で、その後北海道に帰って、演出の「こしばきこう」さんと作った劇団だ。
前の年にd-倉庫で行われたハイナ・ミュラーフェスに参加していて、その完成度の高さに驚嘆して、リオフェスへの参加を打診したのだ。
まるでスコットの鈴木メソッドのような独特の動きを駆使して、難解なミュラーの言葉を客席に届ける。

最期はURARAが「MISHUKA」の別名を使って、ストライプハウスギャラリーで「吸血伝説」を上演した。
URARAさんの言葉にバイオリンとクラリネットがコラボする不思議なドラマなのだが、これは少し無理があったようだ。
演奏者が普通のコンサートのような姿(服装も動作も)で、演者の世界と隔離して感じたのである。
しかし、URARAの新しい舞台創作の意欲を感じさせられるもので、次への期待がふくらむようだった。

こうしてこの年は、5会場6劇団7作品というボリュームたっぷりのフェスとなったのだった。
しかし、フェスの後、再度アゴラの平田さんに呼び出され、やはりリオフェスとしてのアゴラ使用は今後できない旨を伝えられる。
15年にわたり好条件で貸してくれていたアゴラだったが、リオフェスを通してのさまざまな劇団への貸し出しはトラブルが多く、そうした無理が重なっていたようだ。
その後10月に大橋の食道ガンが発覚し、翌年の2月には新型コロナの感染が始まり、前途不安な要素が多発した。
それでも私はリオフェスをやり続けるつもりだった。
 

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幻のリオフェス2020

この年のエントリーについては、コロナの感染拡大前の時点では、ユニットR、吉野翼企画、プロジェクト・ムー、風蝕異人街の参加が予定されていた。
この内、ユニットRがメンバーの高齢と持病の問題から、参加できない旨を伝えてきた。
つづいて、風蝕異人街からも、東京での公演はやっぱり怖いので、参加できないとの連絡があった。
プロジェクト・ムーはこの年、「雪女」を荒川昌代と仙葉由季の二人雪女にしてやるつもりだった。
しかし、非常事態宣言で街が閑散とする中、仙葉さんのお店も大変な事になっていて、とても芝居どころではないという。
吉野翼企画だけは、感染対策を万全にして公演を強行したが、一劇団だけではフェスにならないので、仕方なくリオフェス自体は中止せざるを得なくなった。
水妖忌も無理だと思っていたが、これは雛ちゃんとコリーンの尽力で、ズーム形式での開催が可能になった。
吉野さんの公演は面白かったが、出演者が全員マスクを付けての演技で、やはり異常な公演だった。
そんな訳で、ここからコロナ禍での自粛生活で、悶々としながら一年をやり過ごすしかなくなってしまったのである。

岸田理生アバンギャルドフェスティバル2021(リオフェス2021)

まだまだコロナ禍真っ最中のこの年、オリンピックすら無観客で行われる中、リオフェスは不完全な形ではあったが、開催する事ができた。
まずカナダからコリーン・ランキさん率いるトモエアーツという名のグループが、ズームでのネット配信をしてくれた。
コリーンは数年前から、毎年のようにリオフェスに来てくれて、岸田の台本を使ってハワイ大学で上演したり、レクチャーに使ってくれたりしていた。
ズームでの配信という特殊な形ではあったが、初のリオフェス参戦となった。
演目は「疫病流行紀」で、まさにこの時期ならではの作品だ。
最初にコリーンの挨拶があり、次に私が、「疫病流行紀」を寺山さんと理生さんが書いた当時のエピソードの話をした。(もちろん英語の通訳付きである。)
そしてズームを駆使してのズーム演劇が始まる。すると、これが素晴らしいできなのだ。
俳優たちのこなれた演技もさることながら、そのスイッチチェンジの巧みさや、背景、照明などの使い方など、非の打ちどころのないものであった。
一回限りのライブ配信というのも臨場感があって良かった。
まるで新たなジャンルの表現のようで、まさにアバンギャルドにふさわしい可能性に満ちた舞台だった。

次は吉野翼企画が絵空箱で「吸血鬼ー伝染する媒介物」のタイトルで上演する。
舞台上には十数人の身体表現者がいて、セリフは俳優たちが音声を吹き込んでスピーカーを通して流れる。
事前にその話を聞いた時は、ちょっと無理があるのではないかと思っていたのだが、実際の舞台は最高だった。
主役の避雷針売りと毒子と薬子のダンサーが素晴らしく、スピーカーを通して流れるセリフは言葉がハッキリ聞こえる分、理生さんの世界がしっかりと見えるのだ。
「吸血鬼」は「糸地獄」の次に書かれた作品なのだが、同じテーマ(女たちの連綿と繋がる血の連鎖)だったのだと、この舞台を見て初めて分かった。
多分、吉野翼企画の作品の中では、一番すぐれた舞台だったのではなかろうか。
吉野さんの好意で、水妖忌も絵空箱を使って対面とスームの両だてで行う事もできた。

続いて風蝕異人街が「四重奏ーカルテット」を観劇三昧にてネット配信する。
この舞台は3月に北海道の劇場で上演したものを、期間を区切って流したのだが、完成度の高さは十分に伝わった。
ビデオと同じように、何度も再生できるので、難解なミュラーの言葉も理解ができてとてもよかった。
肉体表現は舞台同様にキッチリとしているし、表情などもアップになる分、実際の舞台以上によく分かる。
これまた舞台表現の可能性を感じさせる新しい体験だった。

最後の作品は、プロジェクト・ムーが昨年やる予定だった「雪女」を、「裸のエチカ」のユニット名で上演した。
仙葉さんが昨年仕事の関係で上演できなかったのだが、その後生活のメドがつき、小さなバーと飲み屋を使って、荒川さんと二人だけで試演会をやっていた。
それに今回は原田拓巳さんを加えて、三人での舞台に仕立て上げ、プロトシアターで上演したのだ。
少人数での舞台という事もあり、感染状況も収まっていたので、ほぼ通常に近い形での舞台となった。
プロジェクト・ムーとしての作品とは、少し違う演出ではあったが、好感の持てる舞台に仕上げてくれていた。
そんな訳で、この年のリオフェスは対面二劇団、ネット配信二劇団と、規模も小さく形態も異質なものとなった。
しかし、その異常な状態の中でも、新たな可能性が随所に見られる充実したフェスとなったのである。

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