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​あの頃

​理生さん、あの頃こんな事がありましたよね?​

​「洪水伝説」の頃

​2、墜ちる男の頃

理生さん、覚えてますか?
初めて私が理生さんに会った日のことです。
その頃、とある事情から早稲田の劇研にいられなくなって、文学座の研究生をやっていた私に、同じく劇研にいられなくなって、天井桟敷に行ったHから電話があった。
久しぶりにSとKを誘ってウチで麻雀でもやらないか?一人紹介したい人がいるんだよ。
Hからの電話を切ると、私はHの四畳半の下宿にむかった。
部屋に入ると私が一番乗りで、SとKはまだ来ていなかった。
Hの部屋にはあなたがいて、始めまして!と小さな声で、だがハッキリと言った。
岸田理生さんだ。え?あの岸田りせいって書く人?りおって読むんだよ。へー、そうなんだ…、てっきり、りせいって名前の男の人だと思ってた…。
当時、既に天井桟敷の機関紙「地下演劇」で名前だけは知っていた、私のあなたに対する初対面の情けないコメントである。
その後、集まってきたSとKとHとでニヌケで麻雀をやったのだが、あなたはまるでHの情婦か家政婦のように振舞っていて、甲斐甲斐しく酒だの料理だのを出してくれた。
そうかと思うと、私たち4人が麻雀に熱中していても、締め切りがあるなどと言って、部屋の片隅で原稿用紙に向って原稿を書くのだ。
隣で麻雀してて気が散りません?いいんだよ、この人はプロだから…。
あなたの代わりに答えるHに微笑を向け、すぐに原稿の続きを書くあなたは、確かに職人のモノ書きを感じさせてくれました。
麻雀の結果が誰の勝ちだったのかは覚えていない。
ただ、あなたの麻雀は強気で、まるでギャンブラーのようだったし、原稿を書く姿は、既に作家としての風格を持っていたことだけは覚えている。
その日は紹介されただけで、その約一年後にやるお芝居の話は出なかったように思う。
しかし、その時の出会いによって、その後早稲田の劇研で2本の芝居を作り、それを皮切りに結局あなたが亡くなるまで付き合うことになるんだから不思議ですよね。

理生さん、覚えてますか?
その後も私達は何度も麻雀をやったりお酒を飲んだりしましたね。
私は文学座の研究所を卒業という形で一年で追い出され、再び劇研に帰ってきてSの作る芝居に出たりしていた。
あなたとHはもう一年、天井桟敷にいて、Hはあなたの作品を演出する下準備を劇研に働きかけていた。
そして翌年の春、あなたは満を持して劇研に脚本を提供することになった。
天井桟敷の脚本協力では名前の知れていたあなただが、自らのオリジナルの作品として始めて書いた脚本がこの「夢に見られた男」だった。
この作品は、その次の「墜ちる男」に向けてのワークショップのような形で、劇研のアトリエで行われた。
タイトルからも分るように、各シーンが夢の中の出来事のようで、かなり観念的な舞台だったように記憶している。
そうして、この時点で私は、あなたの紡ぎだす脚本と言う夢に、役者と言う登場人物として参加し、正に夢に見られる役割を担うことになったのだ。
もちろん、私の方は私の方で、この時、一人の作家と一生付き合うという、もう一つの夢を見始めた所だったのだ。

「夢に見られた男」の頃

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​「洪水伝説」の頃

​2、墜ちる男の頃

その年の春は雨ばかり降っていた。
2月に「夢に見られた男」の公演が劇研アトリエで無事終わった。
そして次は大隈小講堂を借りてのちょっと大規模な公演を6月に予定していた。
タイトルは「墜ちる男」。既に「新劇」誌上で発表していた「眠る男」と合わせて、男三部作となる。
やはり観念的な内容のお芝居で、私達はその台本を詩のように受け止めて、その表現方法を楽しんでいた。
毎日の稽古はアトリエでは狭すぎたので、アトリエ前にテントを組んでやった。
「また、雨だー。」劇中のそんなセリフがピッタリ当てはまるかのような雨が続いた。
この時の主役、つまり墜ちる男はSがやった。
Sは自分で演出もできたが、役者としても存在感のある強烈な個性だった。
対する私は、なんとも無個性で、演出のHに言わせると「商人」なのだそうで、その為、いろんな物売りを変幻自在に入れ替わる役をやった。
なんか俺の場合、Sと違って自分ってものがないんですよねー。
行きつけのスナックでグチる私に、理生さん、あなたはいいました。
「自分を最初から持ってる人もいるだろうけど、後から見つける人もいるんだよ。円周を少しづつ書いていると中心がハッキリしてくるようにね。」
この言葉に私はどれだけ勇気づけられたことでしょう。
それ以来、私はいろんな役をやることで、自分を見つけようと思い、どんな役でも引き受けるようになった。
「あなたは誰?」「誰でもないわ、まだ。」「まだ?」「これからなるのよ、誰かに」
後に岸田戯曲に何度も登場するこの言葉の思想の原点が、既にこの時点で明確になっていたのだった。
単に私を励ますだけの言葉ではなく、つまり「ある」のではなく「なる」ことが重要なのだとする考え方である。

劇研内部では、突然外部からやって来た岸田理生と言う才能に、刺激を受けながらも警戒する人たちもいた。
その為、Hと理生さんは、この「墜ちる男」が終ったら、何人かを引き連れて新しく劇団を旗揚げする予定だった。
その新劇団に私は参加する予定だったが、既に劇研内でグループを作っていたSはまた別の劇団を旗揚げすると言う。
理生さんもカリスマだったが、その男もまたカリスマ性を持っていたのだ。
そして一つの劇団に二人のカリスマはいらなかった。
私には強烈な個性がない分、新しい劇団にとっては都合のいい存在だったのかもしれない。
そして、理生さんは、そんな未来まで予見していたように、Sに自分の王国を追われる男、つまり「墜ちる男」の役をやらせたのだった。
その後、新劇団で私は何役もの役を担う役回りとなり、Sは自分の劇団をわずか二年で崩壊させる。
私は商人と言われた通り、数年後には制作も任されるようになるのだ。
「また、雨だー。」とセリフを書くと、雨の日が続く。
同じように理生さん、あなたは墜ちる男をSにやらせ、私には商人をやらせ、言葉によって未来を告知していたんですね。

「墜ちる男」の頃

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​「洪水伝説」の頃

​2、墜ちる男の頃

何事も新しい事を始めようとする時期は楽しい。
早稲田の劇研での2本の公演成功で気をよくした私たちは、新劇団の旗揚げメンバーとともに何度もミーティングを持った。
劇団名は何にしよう?とか、公演場所と時期はどうしよう?とか、足りないスタッフはどうしよう?とかの話だった。
将来アトリエを持つ事を考えて、○○劇場にしよう!と演出のHが言う。ゴロがいい名前がいいから「カイ劇場」っていうのはどう?と舞台監督のYが言った。
櫂と言う名の劇団は既にあった。甲斐、界、魁…。なかなかいい字が浮かばない。
歌以劇場ってのはどう?と誰かが言う。じゃあ加以劇場は?その時、理生さん、あなたは言いましたよね。
「私たちに歌は変だし、これからは引き算が重要になるよね。だったら哥以劇場にしない?」
私は哥などと言う字がこの世にあることさえ知らなかった。
それから公演場所は劇場とその所在地のイメージから、六本木の自由劇場にしようということになった。
理生さん、あなたは、それから寺山さんと天井桟敷のネットワークを使い、多くの助っ人を呼んできましたよね。
チラシのデザインは現在も活躍中のイラストレーター山田維史さんにお願いし、そうしたら話しがどんどん大きくなってしまって、その山田さんの関係で、な、なんと田中泯さんに出演をお願いする事になってしまって、私たち俳優陣はビビりましたよ。
だって、泯さんと言えば、その当時でも土方巽の門下生でない、独自の舞踏活動をしている方として超有名でしたから…。
実際には私たちが舞台の上で演技をしていると、その隣の土間のような部分で物語とは直接関係なく、裸でモゾモゾしているのでした。
共演と言えば共演なんですが、全く別の表現を隣でやっているような不思議な感じでした。
私なぞ、お客さんの集中が、そちらに持っていかれるのではないかと心配で、思わず突拍子も無い声を上げたりして、視線を集めようとしてましたもん。

そう、それからもう一人、とても有名な人を呼んで来ましたよね。
と言っても、有名になったのは20年後の話で、この当時はまだ音楽家の卵として三枝成彰氏と寺山さんにかわいがられていた、20歳くらいの湯本香樹実でした。
そんな、後に「夏の庭」で有名な小説家になろうとは知らない私たちは、当時彼女の事を「かもめ」「かもめ」と呼び捨てにしていました。
まだ音楽の道を目指していた当時の彼女ですが、非常に強いオーラのようなものを纏っていて、いつも数人の男子学生を従えて稽古場に来ていたものでした。
そんなオーラを持っている所が理生さん、あなたと少し似ていたように思います。
彼女にはその後三回くらい、音楽を頼んだんでしたっけ?
この「洪水伝説」もまた、水と血の戦いという観念的なお話で、早稲田時代の学生演劇の匂いが抜けきらないものだった。
確かに新しい演劇を作るのだと言う気概だけは持っていたが、その舞台成果はとても多くの観客に受け入れられるものではなかった。
しかし、私たちはさまざまな批判を浴びつつも、無事旗揚げ公演を終え、それから年に2、3回の本公演を行うようになるのだった。

「洪水伝説」の頃

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