「恋其之参」の頃
舞台監督Nのいなくなった劇団では、その後の公演をN抜きで考えなくてはならなくなった。
幸い役者の中に大道具の経験者が二人いて、俺達がいるから大丈夫だと言う。
それにこの年はなにしろ最初の「宵待草」の旅公演で、既に百万円くらいの借金があり、「糸地獄」はなんとかトントンでやり過ごしたものの、次の「恋其之参」でも緊縮財政を強いられていた。
つまりセットにも照明にもほとんどお金をかけられない状態の中で考えるのだから、はなから仕込みの分量も制限せざるを得なかったのだ。
「恋其之参」は「昭和の恋-三部作」の最終話で、壱が昭和初期、弐が戦争直後だとすれば、参は現代と言うことになっていた。
もちろん岸田理生の描く現代だから、せいぜい昭和40年代から50年代くらいの東京下町のお話で、まだ大規模マンションではなく団地と呼ばれていた時代である。
当時、門前仲町のマンションに住んでいた影響もあって、そんな団地の風景を描く事になったのかも知れない。
それから早稲田時代からの友人Kと飲んでいて、恋其之参は現代だと言う話をすると、では女達は是非レオタードを着てエアロビクスでも踊って欲しいと言われた影響もあって、私たちの劇団としては異例の事だが、なんと冒頭のシーンで本当にレオタードを着てエアロビを踊ったのである。
セットも緊縮財政の中、ベニサン・ピットにある平台と箱馬とベンチをうまく組み合わせて、四面が客席になるいわば変形の円形劇場を作った。
現代がテーマと言う事で、お客同士の顔が見える構造にしたのである。
エアロビだけに限らず満員電車の風景とかデニーズでの主婦の会話とか、いわゆる現代の風俗を取り入れて、文体すらもいままでの理生さんとは打って変わったトリッキーでコミカルな舞台となった。
丁度この頃大量に書き始めたテレビドラマの脚本の影響も多分にあったのかもしれない。
だが大方の古くからの劇団ファンや評論家達からは不評で、この劇団も終わったとまで酷評する者さえいた。
Nのいなくなった跡は表面的にはこうして何の不自由もなく、むしろ残された者たちの結束を強める結果となった。
しかし、Nのように純粋にスタッフとしての劇団員がいなくなることは、この後ボディーブローのように効いて来るのだった。
つまり、皆スタッフはできても、それが本業ではなく、役者としてもっといろいろな舞台に(できれば良い役で)出たいと考えていたのだ。
Nはこれまで、稽古のスケジュールが狂うと言う理由で、劇団員の外部主にテレビへの出演を制限していた。
テレビ局や制作会社は傲慢で、こちらの劇団のスケジュールなどお構いなしに要求してくる。
一方民主主義を原則としている劇団としては、一人にそんな勝手を許す訳にはいかない事情もあったのだ。
そうした外部からの誘いを頑として受け入れなかったNがいなくなることは、その箍がはずれいままでよりも開放されることも意味していた。
実はこの時期、私と理生さんはその点について話し合い、今後は行き着くところまで開放するしかないとの合意を得ている。
翌年から始まる怒涛のような連続上演とテレビ放映は、そんな劇団事情も相まって、加速度的に回転していったのかも知れない。
いずれにしてもNの退団と言う出来事は、単に舞台監督を補充すればいいような簡単なものではなかったのである。
そして劇団はこの後、劇団員の欲望のままに、どこどこまでも開放されていくのであった。
私自身も理生さんも、実はそれでよいと思っていた。
ただ一年に一回だけは劇団員が総力で当たれる作品があれば、劇団員同士の結束は緩むこともないとタカを括ってもいた。
そして私は丁度この頃から、密かにもう一つ先のプロジェクトを進めようとしていた。
国内公演に懲りた私は、今度は海外公演の可能性を探り始めたのである。
まさかその海外公演こそが、この劇団にとって最大の劇薬となる事など、この時点では誰も想像できなかったのである。
ワークショップ「魚族祭」の頃
この頃の劇団に勢いがあった証拠がある。
それは二つの劇団の合同作業を含めて、新劇団を創立したメンバー15人の中で、辞めた人間がNを入れてもわずかに3人しかいなかったことである。
つまり足掛け6年間もの間、同じ仲間と芝居作りができたのだ。
当然ながら、その演技もどんどんこなれてうまくなるし、いわゆる仕込みも含めたアンサンブルも完璧で、すべてにおいて皆がツーカー状態になった。
ところがその反面、創立以降に入団した新人との間に、限りない隔たりができてしまった。
その上キャリアの長い役者が辞めない分、新人に廻ってくる役も小さく少なくなってしまい、ますます経験に差ができてしまう。
なんとかその差を埋めたいとの思いで、新人を切り離して「イオの会」なる養成所まがいの組織を作っては見たものの、まだ解消には程遠かった。
しかもこの年からは、劇団外作品の怒涛のスケジュールが待っていた。
もちろん、いろんな外部出演は創立メンバーが主な役を演じるのだが、一つのお芝居には必ずコロスのような群集を演ずる役がたくさん必要だ。
そして、そうしたコロス達の演技のレベルによって、その芝居の厚味が出てくるものなのだ。
その為にも、新人の更なる養成は急務だった。
そんなわけで、このワークショップ「魚族祭」は企画された。
やはり同じような意向で上演された「眠る男」ともまた違い、今回は創立メンバーは一人も出演しなかった。
サブタイトルは「夜咲く花の子」で、これは「イオの会」が夜行われていて、昼間の劇団の稽古の陰で密かに息づいていた事を、理生さんがもじったものである。
もちろん「イオの会」はまだ二期生が終わったばかりで、それよりも上の世代も出演者の半数を占めた。
しかし演出の和田さんの「イオの会」に対する思いいれは強く、実は3月には二期生による卒業公演をしていたのだ。
だから、この公演も半分は「イオの会一期生」の卒業公演の趣きもあった。
冒頭、小川未明の「人魚姫」の言葉が使われ、波の音の中で5人の女性がウェディングドレスを着て語るシーンが印象的だった。
和田さんとしても、理生さん以外の言葉は久しぶりで、理生さんの言葉との切り張りを楽しんでいるようにも見えた。
この年はその後、劇団公演としては7月に「フォーシーズン」と言う二人芝居と、12月に総力を結集した新作「料理人」が予定されているのみだった。
しかし、理生さんの劇団以外での作品は多く、その分劇団員の外部出演が多数決まっていた。
まずは6月に流山児事務所の「嘘・夢・花の物語」に創立メンバーの中で最も若いKが出演する。
9月には中島葵さんのプロデュースで「終の栖、仮の宿」があり、これには男優Iと女優T、K、それにコロスとして四人の新人が出演する。
揚げ句の果てに10月には、シアターアプルの企画、神代辰巳監督の演出による商業演劇「浅草紅団」に、女優I、Y、Yと男優Nの出演が決まっていた。
はたまた4月からは岸田理生シナリオのテレビドラマや映画の撮影がほぼ1ヶ月に一本くらいの割合で入り、それにも劇団員を端役で出演させることになっていた。
こうなると、私の仕事は主にマネージャー業である。
それぞれのギャラから10%を劇団に納め、10%は私の収入とする。
つまり、劇団員10人の懐に入るギャラの平均値を私がいただく勘定になればいいと思っていたのだ。
そうして、いろんな現場で勉強したことがらを、それぞれの劇団員が持ち帰って12月の本公演にぶつけてくれればよいと思ってもいたのだ。
思えば理生さんはこの年、よくこんなにたくさんのプロジェクトを同時並行でやったものだ。
その分、演出の和田さんには、それ程多くの仕事もなく、そういう意味でもこの新人公演は重要かつ大きな意味があったと言える。
「フォーシーズン」の頃
既に書いたように、この年は理生さんの劇団外の作品が膨大にあり、それぞれの場所に出演させる役者たちの人選はなかなか難しかった。
役者たちのキャラクターが役柄に合わなくてはならないし、劇団内での順番も考えなくてはならない。
そして12月に本公演で新作を上演することが決まっていたものの、劇団としてももう一本別の形の公演をやりたいと考えていた。
そこで考えたのが、この「フォーシーズン」と言う二人芝居である。
いままでの劇団公演では考えられない少人数の出演芝居だが、それもこれもこの年の外部出演の多さのおかげで可能になったともいえる。
内容は「糸地獄」などでもおなじみの「四季の風」の言葉などを使い、一人の男と一人の女の出会い、恋、生活、別れ、などを、非常にプリミティブに描いた作品となった。
出演するのは男優陣のトップOと、女優の中でもこの時点で既に理生さんとの付き合いが最も長かった雛ちゃんだ。
理生さんの脚本も新鮮だったが、二人の役者と演出がガップリ四つに組んで、いままでの劇団とは全く違う世界を切り開いてくれたと思う。
私としても今後もこうした小さなプログラムが劇団で上演されるという、そんな期待を込めて「スーパーセレクションvol.1」と銘打った。
残念ながら、その後このシリーズは続かなかったが、「フォーシーズン」という作品自体は、その後、東京演劇集団「風」によって再演されることとなる。
その時の演出も和田さんが務めたように、この作品は理生さんにとっても画期的だったかもしれないが、和田さんとしてもやりがいのある作品だったに違いない。
「恋其之参」の時もそう感じたが、このフォーシーズンでも男と女の日常的な倦怠感とか別れが描かれている。
これはもちろんテレビドラマのシナリオを書いていた影響もあるだろうが、この時点で同棲していた照明の武藤さんとの間がうまくいかなくなっていたからかも知れない。
この年の暮れ、理生さんは武藤さんとは別居して、中野のマンションで一人暮らしを始めるのだが、不思議なことにその後もこの二人は仲良く食事をしたりしていた。
もちろん照明はキチンとした予算が出る時はいつも武藤さんで、その技術に対する信頼感は不動だった。
テレビ局のプロデューサーなどから、世のサラリーマンの男性達の悲哀とか、人妻たちの生態とかを山のように聞かされ、この時期、思わず自分自身の生活を振り返ってしまったのかもしれない。
いや、多分そんな普通の生活の中での男と女の関係を、自分でも経験したかっただけなのではないだろうか?
それが証拠に、武藤さんとは結局亡くなる最後の最後まで付き合いが続き、結婚こそしなかったものの、理生さんとしては最愛の男性だったことに違いはないのだから。
そうですよね、理生さん?
出会いがあり、恋をして、一緒に生活をする中で、別れが生まれる。
そんな当たり前な男と女の関係。
それはなにもお芝居の中だけのことではないのですもんね。
当事者の武藤さんと理生さんが、どう感じていたかは想像の域を出ない。
でも、一つだけ言えることがある。
それは私自身はそんな理生さんの生活の中で、男と女の感情も関係も一度も持たなかった事だ。
だからこそ二人の関係が長続きしたともいえるのだが、亡き今となっては一抹の寂しさを覚えるのも又事実なのである。
フォーシーズン。それは理生さんがいなくなった後も毎年変らずに巡ってくる。
「終の栖、仮の宿」の頃
何度も書いたように、この年からしばらく、理生さんの活動は異常な分量となる。
だからこの年、外部に書き下ろした作品はたくさんあるのだが、この「終の栖、仮の宿」だけは、その中でも特別な位置を占める。
それは、理生さん自身が久々に単独で演出をした作品だからだ。
プロデュースした中島葵さんには、芥正彦さんと言う希代の論客であり演出でもある連れ合いがいたし、もちろん劇団には和田さんと言う最も信頼できる演出もいた。
しかし、この公演に限っては、その二人の熟練の演出家に一言も言わせない約束で、理生さんのやりたいように演出したのだ。
もちろん私も制作として全面的に関わったし、劇団の役者陣も3人の主な役と4人のコロスを引き受けた。
キャスティングからスタッフワークまで、葵さん側の制作である万代さんとすべて相談しながら決めて行った。
そう言う意味でも、理生さんが台本を書き役者を出演させただけの「浅草紅団」とか「嘘・夢・花の物語」とは、私の中での位置も全く違う。
劇団公演とは違って、いろいろとやっかいな問題も多かったが、新たな出会いも多くあり、充実した舞台となった。
しかし、今考えても、よくこの忙しい年にわざわざ膨大な時間を割かれる演出作業をやろうと思ったものだと感心する。
人は忙しければ忙しい程、ますますいろんな事をやりたい欲望が膨れ上がるのかも知れない。
結局、この作品で翌年の紀伊国屋演劇賞の個人賞をいただくのだが、これは慣れない演出作業をやり遂げたご褒美のようなものだった。
作品の内容は、男装の麗人川島芳子と李香蘭、二人の女の生き様を横軸に、川島芳子を巡る4人の男性と、それぞれが背負う時代背景を縦軸に展開される物語である。
芳子をまるで品物のようにやり取りする養父、お互いを利用しあう関係の甘粕、偽の夫婦として生きる田中、そして個人秘書の役割をする小方。
そうして芳子の実の父親粛親王に対する想いは、理生さん定番の父恋いだけではなく、主役を演じる葵さんの亡き父親森雅之への想いにも通ずる。
この現場には武藤さんも照明として参加していたし、演出助手をしてくれたSさんと理生さんとは新しい恋人のような関係になってもいた。
稽古場では理生さんと葵さんの事を、まるで二人の父親のように芥さんと和田さんが見守っていた。
まさに物語の内容そのもののように、二人の女性を巡り男達がいろんな役割を担っていたのだ。
そんな中で、私の役割はもちろん芳子の秘書小方のようなものだった。
物語の中で逮捕された芳子を想い、芳子が飼っていた猿とワルツを踊るシーンがあるのだが、私にはどうしても自分の姿がダブって見えてしまった。
もし理生さんが逮捕されたり、死んでしまったら、私もこんな風に理生さんの所有物とワルツを踊ったりするのだろうか?
今、この文章を書いていると、この事こそ取りも直さず理生さんとの想いの中でワルツを踊っていることなのかも知れないと感じる。
ちなみに、理生さんよりも前に葵さんはガンで亡くなった。
それだけではなく、この公演に参加した戸浦六宏さん、趙万豪さんも亡くなってしまった。
葵さんのお葬式では、この公演の時の写真が遺影として飾られていた。
既にこの公演の稽古時に葵さんがガンだと知らされていた理生さんは、いったいどんな想いでこの現場を乗り切ったのだろうか?
芳子の秘書小方と自分を重ね合わせながら、理生さんの気持ちのほんの一部分さえ理解していなかったような気がする。
とにかく、寺山さんの死以来、共同作業をしたたくさんの人を見送っていた理生さんだが、この公演にもそんな死の影が漂っていた。
そして、そんな死の影こそが、理生さんがお芝居を作る意識の根っこにあったのかも知れないと思うのだ。
「料理人」の頃
さて一方、劇団本公演も理生さんは意欲作を考えていた。
世の中は正にバブルの真っ最中で、飽食の時代を迎えていたし、世界に眼を移せばチェルノブイリの原発事故の詳細がだんだんと明らかになって来ていた。
もともと食べる事に関しては、理生さん自身激しい執着を持っていた。
決して量はたくさん食べられないのだが、それだけに美味しい食事を常に望んでいた。
しかもやっかいなことに、理生さんは一人では決して食べられないのだった。
この「料理人」と言う戯曲は、そうした状況の中で作られた。
久しぶりの無国籍無時代モノ、というか初めての近未来モノである。
食べる事を禁じられ、栄養はすべて安全な錠剤で賄われるようになった、とある国のお話である。
この国では単に食べる事だけでなく、「食べる」という言葉を使うことさえも禁じられている。
人間生きていて、食べるのに費やす時間は膨大で、食べている時間はもちろん、食べ物を作りあるいは買い物をし、料理を考え作り、世の中の主婦なんぞは毎日その事ばかり考えていると言っても過言ではない。
そんな人間から「食べる」のに使っていた時間がポッカリと空いてしまったとしたら、一体人間はその時間を何に使うのであろうか?
そして、人間にとって「食べる」ことは一体何だったのか?
これが、このお芝居のテーマである。
理生さんは若い頃は自活する為にいろんな文筆活動をして来た。
例えばSM小説も書いたし、SF小説も書いた。
文学少女向けの小説も書いたし、詩集の翻訳などもして来た。
しかしこの時期のテレビの脚本の仕事程、金銭的には恵まれた時代もなかったと思う。
単にギャラが高いと言うだけでなく、テレビ局や制作会社の接待攻勢はすさまじいものがあったのだ。
大抵は打ち合わせと称して、普段は行かれないようなレストランや料亭で食事を饗される。
でも、あくまでも打ち合わせだから、それに神経を使い、何を食べているのか分らない。
帰りは送りのタクシーが用意されていて、アルコールのみが体に溜まって行く。
つまりは、そういうバカげた食事をするのが、このバブルの時代だったと言ってもいい。
そんな高価で豪華だけれども、決しておいしくない食事に対する恨みが、この脚本を書かせたと言ってもいい。
このお芝居には、いろんな人々の食にまつわるエピソードが展開されるが、最後に禁忌を破って食べる一組の夫婦が口にする最後の晩餐は、なんと「鯨の大和煮」の缶詰なのである。
生き物を食べることでしか生きられない人間の、どうしようもなさとかわいさ。
そして「食べる」ことは「繋がる」ことだとする、一人では食べられない理生さん特有の思想。
結局この作品は、この劇団としても後期の代表作となったし、外部出演でストレスの貯まっていた劇団員にとっても、非常に居心地のいい現場だったと言える。
理生さん程にはバブルの恩恵を受けていなかった私たち劇団員だが、それでもいろんな場面でそのおこぼれにはあずかっていたのである。
中野の劇団事務所兼私の家は、都庁移転に伴う地上げ攻勢で、かなりいい条件で引越しさせられた。
理生さんと一緒にテレビ局関係の人と合い、その食事のお相伴に預かることもあった。
そんな私たちにとっても、この「料理人」の内容は身につまされる内容だったとも言えるのだった。
「フォーレターズ」の頃
この「岸田事務所+楽天団」と言う劇団が終わってしまった原因はいくつかあるのだが、一つ挙げるとすれば、それは理生さんが劇団創立時の了解事項に反して、自分でも演出をしたくなってしまったことだと思う。
自ら演出した外部公演「終の栖、仮の宿」の成功に気をよくした理生さんは、次は劇団でも演出をしたいと思うようになった。
もちろん劇団では作・岸田、演出・和田と決まっていたので、和田さんに対してもいろんな画策を謀らなくてはならなかった。
その一つが、この年にシアターアプルで行われた「桜花抄」である。
それまで理生さん自身が外部公演をたくさん引き受けていたのに、和田さんの外部公演がほとんどなかったので、この「桜花抄」で演出和田喜夫を外部に売り込んだのだ。
そして、その間に劇団の面倒を見ると言う形で、自分の演出作品を上演しようと思ったのだった。
「桜花抄」は五大路子さんを座長にし、東京演劇集団「風」がシアターアプルと企画した作品で、劇団からは女優Iと男優Oをメインに若手何人かもコロスとして出演させた。
また、この頃劇団のアトリエのご近所に住んでいた連城三紀彦さんの依頼で、12月には連城さんの作品の上演のお手伝いをすることになっていて、その公演では男優IとNが主役で採用される事が決まっていた。
そして劇団に残された4人の女優の為に、理生さんはこの「フォーレターズ」と言う作品を提供するのだった。
この作品はいままでの理生さんの戯曲のように、キチンとした脚本を作らずに、シーンのプロットとそこで行われる行為のみを記した簡便な台本が配られた。
その行間を埋めるのが演出岸田理生と4人の女優達の共同作業となった。
一人の男の不在によって、4人の女たちが繰り広げる4人4様の生き様を描いた作品だ。
それはまるで亡き寺山修司を巡る4人の女性たちが、亡き後どのような生き方を選び取ってきたかを描いているようでもあった。
冒頭、男の葬式のシーンから物語りは始まる。
人形作家Mの作った子供大の人形を、4人は自らの影のように背負い、中央にある帽子を被った柱に向かって歩く。
舞台はアトリエの中央のおよそ六畳程の空間と、そこから四隅に向かう道が使われた。
つまりお客さんはその道と道に挟まれた四方の空間に互いに顔を見合わせる形で座るのだ。
セリフは簡便な言葉が羅列されるのみで、主に4人の行為を見せる、かなり実験的な舞台となった。
理生さんとしては、劇団の中で自分が演出の領域に踏み出すかぎりは、和田さんにも楽天団時代にやっていたように、書いたり構成したりする行為に踏み出してもらわなくてはならない。
この「フォーレターズ」では、ほとんどセリフのない構成舞台を作ることで、和田さんに対して挑発していたと言ってもいい。
こうした挑発はその後も頻繁に仕掛けられるのだが、和田さんは頑として理生さんの脚本に拘り続け、その事が益々理生さんとのすれ違いを生んだとも言える。
一方、私はこの頃、主宰者二人にそうした齟齬が生まれ始めているとは気付く由もなく、ようやく芽が出かかった海外公演の企画を、せっせと押し進めていたのだった。
そうしてこれは何度も書くが、その海外公演こそがこの劇団を終焉へと誘ってゆくことも、もちろんこの時期に気付くはずもなかったのである。
「フォーレターズ」それは亡き男に対する4人の女の手紙と言う意味でもあるが、フォーレターワーズ、つまり四文字熟語と言う意味も想像できる。
理生さんは寺山さんから、そうした禁止されている言葉を使ってもよいのだと言う事を教わったのだそうだ。
では、この4人に託された男に対する四文字熟語とは、いったいどんな言葉だったのか?
そして、その男とは寺山さんのことにかこつけて、実は和田さんのことだったのではないか?
今となってはその真意は分らないが、とにかくなんらかのメッセージを和田さんに向けたかったことは事実で、4通の手紙は和田さんにこそ届けられるものだったのだ。
「料理人」の頃2
前年にベニサン・ピットで上演された「料理人」の評判は、この時期としては最高だった。
実際、脚本の内容も分りやすく整理されていたし、演出も冴え渡っていた。
役者陣もこの年いくつか出演した他流試合での成果を劇団に持ち帰って、生き生きと演技していたと思う。
そこで劇団がもう一度総力を結集させる方法として、利賀国際演劇フェスティバルに、この「料理人」で参加したいと鈴木忠志さんにお願いした。
鈴木さんは喜んで受け入れて下さって、前回は山房での公演だったので、今回は野外劇場でやってみたらどうかとおっしゃった。
「料理人」の設定自体、近未来の廃墟が望ましいわけで、野外でやる事に何の問題もなかった。
ただ、利賀だけでの公演だと赤字になってしまうし、東京で野外劇場を探すのは難しい。
そこで私は苦肉の策として、このバブル全盛時代にウォーターフロントで盛り上がっていた東京湾岸の「エムザ有明」と言うホールを借りる事にした。
もちろんこのホールは野外ではないし、音楽ホールなので決して芝居に向いている訳ではなかった。
しかし、飽食の時代の廃墟の匂いを既に漂わせていた「エムザ有明」は、ある意味でこの「料理人」を上演するにはピッタリの小屋だった。
客席が700もある大きなホールだったので、わずか一日だけしか公演できなかったが、私としてはシアターアプルなどの他流試合で堂々と演じている劇団の役者たちを見て、本当にその大きさの小屋で私たちのような小劇場の役者が通用するのかを、試してみたかったともいえる。
利賀の公演は、野外の定番である本火を使い、野外劇場のバックにある池に何人かの役者が飛び込む、これまたお約束の演出だった。
なにしろ製作費はほとんど出ないので、中央に鎮座する大テーブルのみのセットだった。
照明は時々ショートすると言う劇場に付随する機材のみを、恐る恐る使用した。
ただ音響はその当時担当していた原島さんの好意で、特別な機材を無料で持ち込んでくれた。
前回の山房での公演と同じように、この野外公演にも満員のお客さんが詰めかけ、改めてこのフェスティバルの素晴らしさを実感する。
山間部独特の濃厚な夜気と観客の熱気に煽られ、まるで夢遊病者のように公演の夜を終えた。
東京に帰ってくると、今度は一転してエムザ有明用に、セットも照明も改めた。
舞台の背景に飾りパネルを仕込み、照明も大量に持ち込む。
舞台と客席との距離感を無くす為に、巨大なタマゴを客席と会場入口に設置する。
そして観客が入場する時には既に、入口のタマゴの横で一人の少女がスパゲッティーを食べ、客席では二人のパントマイマーがパフォーマンスを演じる。
開演の導入として萩原朔美の「リンゴ」と言う16ミリ映画を上映したのも新たな演出だった。
これは萩原さんの代表作で、同じリンゴを毎日同じ時間にひとコマづつ撮影し、一年かけてリンゴが腐敗する様子を撮ったものだ。
これまた飽食と廃墟のイメージだし、アダムとイヴの原罪のことも連想させる。
少ない予算の中で精一杯の見得を張り、演技もスタッフワークも最大限に広げて見せていたと思う。
正に劇団としても爛熟期に相応しい、美味しい舞台で、お客さんは大満足だったと思う。
但し、やはり私自身も舞台に出演していた事もあり、予算的には大幅に赤字になってしまい、結局また理生さんと二人でその負債を背負うことになる。
その反動からか、翌年からはこうした無理をしないで、小さな公演をたくさんするようになった。
そうした意味でも、この公演は劇団がピークの時期を示していたと言える。
時代もバブル。劇団もある意味ではバブル全盛だったのかも知れない。
そして、この直後には連城三紀彦さんとの共同作業が控えていて、これまたバブルを痛感するような公演であったのだった。
「白蘭」の頃
連城三紀彦さんとは、映画監督の神代さんとの関係で知り合った。
当時、連城さんも神代さんもメリエスと言う会社に席を置いていて、理生さんは席こそ置いていなかったが、いろいろな用事で交流が深かったのだ。
その上、連城さんのご自宅が中野のスタジオあくとれのすぐ近くにあって、何回か訪問するうちに、劇団ぐるみのお付き合いが始まった。
実は連城さんとしても自分でお芝居を作ってみたいという願望があって、芝居作りのノウハウを持っている私たちに接近してきたとも言える。
連城さんはとても繊細な神経の持ち主で、私たち劇団員にも相当な気を使って下さり、さまざまな局面でおごってくれたりした。
普段なら私たちが飲みにいけないような高級な飲み屋でも、一緒に行けば当然おごりだし、近所にあった会員制のスポーツクラブを劇団員に自由に使わせてくれたりもした。
おまけにこの「白欄」では劇団員の男優二人を使うことになっていて、理生さんとその二人には分不相応な接待をしていたようだ。
私自身も理生さんが「1999年の夏休み」で熊本映画祭の脚本賞をいただき、その授賞式の為に熊本に同行した時、連城さんの薦めで、前日湯布院の温泉に行くことになり、湯布院映画祭で有名な亀の井別館と言う温泉を、連城さんにおごってもらった。
あげくの果ては、連城さんが次に出す文庫本のあとがきを書かないかとも言われたりもした。
もちろん「白欄」の公演では、理生さんには脚本料が、二人の男優には出演料が、私にさえ制作としてのギャラが支払われた。
もっとも私と理生さんはそのギャラで、劇団の前回公演の赤字を補填することにしていたのだが。
公演会場は新宿に出来たばかりのスペースで、出演者もスタッフも決まり、脚本こそ少し遅くなったものの、順調に稽古も始まっていた。
その歯車が一体どのあたりから狂いだしてしまったのか、今も私には分らない。
まず脚本が遅くなった事もともかく、その内容に連城さんは不満を持ったのだと思う。
因果なことにというか、当たり前だが連城さんは書ける人だったので、それを自分の想い通りに書き直す。
すると今度は作家としては連城さんの方が優れていても、こと劇作家としてのプライドのある理生さんが、その書き直しに文句を言う。
だいたいそんなところからお互いの齟齬が始まったのだと思う。
所詮二人の作家が共同作業することなど、はなから無理があったのだとも言える。
理生さんは演出助手も兼ねていたのだが、途中からは連城さんの好きにやらせるしかないと諦めたのか、一歩引いて構えるようになり、悪い言い方をすれば投げているようにも見えた。
それがまた連城さんの頭に来るのだった。
それでも二人とも大人なので、なんとか公演には持ち込んだのだが、公演前夜についに連城さんがキレてしまった。
稽古時間が足りないと感じた連城さんが、夜ももう遅いというのに、これからスタジオあくとれで徹夜で稽古すると言い出したのだ。
そう言われてもスタジオあくとれは私の私有物でもないし、それは無理だと言うと、「いままで僕がどれだけの無理をして来たと思ってるの?それくらいの無理は聞いてくれても当たり前だわ!」と言うのである。
これには私もカチンときて、「じゃあ、勝手に使って下さい。私は明日の仕込みのことがありますので、帰ります。」と言って帰ってしまったのだ。
私の方としては、この公演が終わればもう付き合う事もないかも知れないが、なんとか公演だけは成功させたかったので、その後も公演終了までは淡々と実務をこなしていた。
公演の評価はもちろんいろいろ言われたが概ね好評で、理生さんも私も胸を撫で下ろした。
しかし、連城さんとしては、この公演直前に来ての喧嘩状態がそのまま後を引き、なんと打ち上げをしないと言うのだ。
それでは手伝ってくれた多くの人たちに、あまりにも失礼だからと説得して、なんとか打ち上げをやったのだが、結局連城さん自身は打ち上げ会場に現れなかった。
そんなわけで、連城さんと私たちとの関係はそのまま突然断絶した。
およそ一年余りの蜜月が楽しかっただけに、この公演はお互いにとって苦い経験だったと思う。
「出張の夜」の頃
この年、理生さんはフォーレターズで劇団の演出も手がけたが、それだけでは欲望は収まらず、劇団とは別に「光ハウスプロダクツ」と言う名のユニットを作り、タイニイ・アリスの夏のフェスティバルに参加した。
これは「終の栖、仮の宿」の時に演出助手をやってもらって意気投合したS氏と一緒に作ったもので、S氏とは和田さんが始めて外部で演出した桜花抄の時にも共同台本で、短い期間ではあったがいわば蜜月が続いていた。
しかし肝腎の劇団公演の方は、やはり原則として和田さんが演出だったし、大きな公演をしようとすると必ず赤字になり、それを補填しなくてはならない。
確かにこの時期、理生さんはテレビドラマのシナリオの仕事が山のようにあり、その一本あたりのギャラはほぼ100万円であった。
「宗方が赤字を出すのなら私が補填しても構わない。でも、頼むからテレビドラマ一本分くらいまでにしてね。」
理生さんはよく私にそう言った。
私はといえば、そんな理生さんの申し出に甘えて、ようやく煮詰ってきた糸地獄の海外公演の方策を練るべく、文化庁との折衝も開始していた。
その中で文化庁の担当官から、海外公演に関しては受入先などの問題で、まだハッキリとは助成できるかどうか分らないが、その前に来年行われる第1回東京国際演劇祭に出品してみてはどうかという話をいただいた。
丁度、日本芸術振興基金の立ち上げの時期で、もしその演劇祭に糸地獄で参加するのなら、基金からの助成が受けられるようにしてあげるとの話だったのだ。
このような助成はいままでになかったので、驚きだったし、実はこの時点ではまだ半信半疑だった。
そんなワケで翌年の劇団公演は、秋口に再演される糸地獄までは、小さな公演をたくさんやろうということで合意していた。
宵待草に続く少人数での公演レパートリーが欲しかったこともあったし、脂が乗り切った劇団の女優何人かに、いわば座長芝居のようなものを体験させたくもあったのだ。
そしてその第一弾として行われたのが、この「出張の夜」だった。
この作品は理生さんが一時間もののテレビドラマの為に書いたものの舞台版で、テレビでは主役を桃井かおりさんが好演して視聴率も良かった。
夏の光ハウスの公演でタイニイアリスと関係ができ、劇場の丹羽さんからは、お正月なら劇場が空いているので、理生さんがやるんなら安く貸しますよ、と言われていた。
だからこの年はクリスマスも大晦日もお正月も稽古をしていて、正月の5日からの本番を迎えた。
ある意味では大変なスケジュールの公演だったが、クリスマスパーティーも初詣も劇団員が揃ってやるという、今考えれば最も幸せな時期の一つだったのかもしれない。
主役の女は劇団の女優陣の中の五番手のYで、一番手が宵待草、二番手が臘月記、三番手がフォーシーズン、四番手が糸地獄で主役をやっているので、いわば順当な配役だった。
そして相手役は劇団員ではなく、外部からHさんと言う演出家を役者として起用した。
もちろんテレビとは全くの別物だったが、男の出張先で男が出張してきた時だけ会えるいわば待つ女を、Yは独特の演技で好演したし、Hさんは出張先でまるで胎内に篭るように女と会う男のズルさをよく醸し出していた。
この二人以外のキャストは劇団の若手を起用し、彼らもまた重要な役柄に奮起して好演した。
演出こそ和田さんだったが、理生さんは自ら照明を引き受けるなど、現場にもたくさんやって来て、劇団員と伴に泣き笑える喜びのうちに公演を迎えた。
その直前の「白欄」が苦い体験だっただけに、身内ばかりで安心できる製作現場は、理生さんにとっても本当に救われる想いだったに違いない。
そうして、この公演の成功に気を良くした私たちは、こうした小さな劇団公演を、その後も連発することになる。
時は湾岸戦争の前夜、バブル崩壊の直前。
つまり世の中は危機に向かって一直線の時代に、私たちはこの出張の夜の男のように、劇団という胎内でぬくぬくと熟成した芝居を作っていたのである。
「日曜日のラプソデー」の頃
「出張の夜」での劇団公演が成功に終わると、私たちは次に当時劇団の三番手女優だった雛涼子を主役に、やはり小さな規模の公演を企画した。
公演場所はいつもは講談などの寄席が行われる、浅草の木馬亭で、ここは映画監督の根岸吉太郎氏の実家でもあり、その関係で上演が実現した。
小屋自体が小さいだけでなく、とてもお芝居をやるには不便な小屋だったが、昭和の匂いを強烈に発する場所は、理生さんの作品にはピッタリだった。
共演は当時青蛾館と言う劇団を主宰していた、ゲイのN氏だった。
この彼女、さすがに昼は劇団を夜はゲイバーを仕切るだけあって、アネゴ肌の本当に女らしいゲイだった。
演技の方も繊細な神経とドスの効いた声を使い分け、一種独特の雰囲気を作り出していた。
「出張の夜」の時と同様に、彼女以外の出演者は劇団員がやり、スタッフもプランと機材だけをプロにお願いして、オペレーターは劇団員で賄った。
小さな公演も本番が近くなれば、劇団員総勢でやると言うこれまた幸せな現場であった。
さて、この辺りで海外公演の話を書かなくてはならない。
和田さんの知り合いにAさんと言う民芸の女優さんがいて、彼女、お父様のお仕事の関係で海外に行く事が多く、その頃は女優の仕事よりも日本の劇団を海外に紹介するプロデューサーのような仕事を精力的に行っていた。
転形劇場を海外に初めて紹介した事で大成功を収め、いろいろなフェスティバルの関係者の知り合いも多かった。
そんな彼女が次に目をつけたのが私たちの劇団だった。
当初利賀フェスに参加した「恋其之弐」の資料を作り、アメリカを中心としたフェスティバルに売り込んでいたが、なかなか思うようにいかなかった。
そこで、大がかりで大変ではあるけれど、やはり「糸地獄」を紹介する方がいいだろうと、方向を転換していた。
理生さんは最初、そんな私とAさんの作業を、少し見くびっていて、できるものならやってごらん!と言う態度だった。
ところが、転形劇場でロスアンジェルスの日米劇場に足がかりができ、当時の支配人J氏を紹介されたり、文化庁に日米舞台芸術事業なる大きな予算枠があると聞いて、その担当者であるT氏を紹介されたりしているうちに、だんだんと実現できるかもしれないと思いだした。
そして、そうなると今度は海外公演に関して、不安が高まってきたのである。
実際、理生さんのそれまでの脚本は、日本語のニュアンスに負うところが多く、「おしんこ」を「ピクルス」と訳されたり、「お味噌汁」を「ミソスープ」と訳されたりする事に違和感を覚えていた。
自分自身の英会話に対するコンプレックスもあって、実は英語の読み書きはかなりできるのだが、会話はできないと言い続けてもきたのだ。
だから、海外公演が一歩ずつ実現に近付くにつれ、どんどん及び腰になり、でも逆にその為の勉強を始めたりもしているのだった。
元々「天井桟敷」で海外公演自体は何度も経験しているのだが、それだけにその大変さを良く知っていたとも言える。
「ハイナミュラープロジェクト」も、そんな海外公演に役立てようとの意図で参加した。
この年の夏、知り合いの韓国人に連れられて、韓国に行くことにしたのも、その流れの中での出来事だった。
「糸地獄」のアメリカ公演はまだ決定していなかったが、秋にはその前哨戦ともなる「東京国際演劇祭」に参加する事が決まっていた。
アメリカ公演はロスアンジェルスの受入先は確定していたが、ニューヨークがまだ決まっていなかった。
そしてそのニューヨーク国際演劇祭のオーガナイザーが、丁度この頃来日していた。
私たちは、そのオーガナイザーを「日曜日のラプソデー」に招待し、その後で最も日本的な場所、浅草の飲み屋に誘った。
それが彼にどんな思いをさせたのかは分らないし、一説では某劇団が横槍したとも聞くが、結局ニューヨーク国際演劇祭には招待されなかった。
しかし、私たちは海外公演と言うインターナショナルな企画を考えながら、最もドメスティックな浅草と言う場所で日本の昭和の物語を上演していたのである。
そのチグハグさこそ、当時の私たちの海外公演に対する意思統一のなさを象徴していたと言ってもいい。
「猫とカナリア」の頃
映画評論家の松田政男氏が「月刊岸田理生」との名言を残したのは、この年の事だ。
実際この年は劇団公演4本の他に、いろんなパターンで岸田理生作品が上演され、なんとその数は一年間に十三本にもなった。
既にある作品を青蛾館や劇団風が上演したものもあるし、流山児事務所や西崎緑さんの為に書き下ろしたものもある。
また劇団DA・Mの大橋宏氏と「女をめぐって」のシリーズを開始したのもこの年だ。
その中で私が全面的に関わった作品が夏に二本続いた。
一本は五大路子さんの主役による「かくれんぼ」で、和田さんが演出をし6月にシアターアプルで上演された。
私は制作として参加をしたのだが、進行とか演出助手のような作業もやることになり、慣れないせいもあってこれはこれで大変だった。
作品自体はテレビドラマで好評を得たオリジナルのシナリオの舞台化で、よくできたドラマだったと思う。
しかし、なにかとイザコザの多い公演だった。
トラブルの一回目は私の確認ミスもあって、ポスターに載る岸田の名前が和田より小さくなってしまって理生さんが怒ったこと。
そして二回目は本番直前になって五大さんの妊娠が判明し、公演そのものを中止するかどうかの決断を迫られたことだった。
結局は二つともなんとか処理できて、公演は成功に終わったのだが、この中途半端な商業演劇に私自身は消化不良を起こしそうだった。
もう一本の「猫とカナリア」は、千賀ゆう子さんが京都の無門館と言う小劇場のプロデューサー遠藤さんと共同で企画して、理生さんが作・演出を引き受けた作品だった。
千賀さんとしては「桜の森の満開の下」と言う理生さんの脚本の作品を、既に長年やり続けていたのだが、もう一本オリジナルの作品が欲しかったのだ。
また遠藤さんとしては、セゾン文化財団に興味を示していて、京都で初めての助成を受ける為に、絶好の機会と捉えていたのだと思う。
そして千賀さんは、今となっては贅沢な話なのだが、当時はまだ今ほど有名でなかった大杉漣さんを共演相手として選んだのだ。
私はこの公演ではもっぱら演出助手を引き受け、稽古と本番に付き合った。
まずは渋谷ジアンジアンで東京公演が行われ、引き続き京都は無門館での公演が行われた。
京都の夏は暑くて徹夜での仕込みは大変な労力であったが、理生さんに付き合って食べに行った「はも」の味と、劇場二階の宿泊所で夜遅くまで大杉さんや他のスタッフと飲んだ事は忘れられない経験となった。
そして何よりも、渋谷ジアンジアンと無門館と言う、旅公演のルートが開拓できたのが、「宵待草」以来旅公演に臆病になっていた私に、新たな可能性を感じさせてくれた。
この「猫とカナリア」の稽古中に、ニューヨーク国際演劇祭の選に漏れたとの連絡があった。
プロデューサーのAさんは、次善の策として、天井桟敷の関係でラ・ママを紹介してもらえないかと打診して来た。
この頃、既にAさんに不信感を抱いていた理生さんは、苦々しく思いながらも天井桟敷の九条さんに紹介状を書いてもらった。
その紹介状を添えて条件を聞いてみると、ラ・ママとしては劇場費を無料にしてくれると言う。
もちろん、フェスティバルなどとは違うので、単独公演として他の宣伝活動からスタッフワークまで、すべて劇団側で行わなくてはならない。
それを考えると文化庁の助成がどのくらいでるのかにすべてがかかっていた。
そして、実行する時に何が必要になるのか、もう少し詳しくリサーチする為に、11月にAさんと私とでアメリカに行くことになった。
理生さんは、そんな私の行動をあざ笑うかのように、「猫とカナリア」の公演が終わると、初めての韓国への旅行をする。
しかし、友人の李静和さんに連れられて行った、この韓国旅行こそが、その後の理生さんの演劇の方向を決定づけるものになるとは、理生さん自身も想像さえできなかったと思う。
私たちは国内で小さな劇団公演を楽しくやっていながら、国際化の波を既にかぶり始めていたとも言えるのだ。
「真夏の夜の…夢?」の頃
お正月にやった「出張の夜」の成功に味をしめ、タイニイ・アリスからは夏のアリスフェスへの参加の打診があった。
その時点で同じように一人の女優を軸に小さな芝居をやろうと決めていた。
「出張の夜」が五番手のYで「日曜日の~」が三番手の雛ちゃんだったから、今度は二番手のYが主役だ。
Yは既に「臘月記」と言う作品で主役をやっていたが、この作品は以前書いたものの再演だったので、是非ともオリジナルが欲しいところだった。
このようにして、私と理生さんは劇団の創立メンバーの女優一人一人に、言って見れば「座長芝居」を与えていたのである。
まるで劇団解散か自分の死後を予感していたかのように、一人一人に遺産分けをしていたと言ってもいい。
もう一人、実は四番手のIがいたのだが、この前の年の「桜花抄」の時以来、Iは精神的におかしくなっていて、一時期は自殺未遂から精神病院での療養までしていた。
しかし、Iには「糸地獄」の主役と言う、この後どうしてもやってもらわなくてはならない役があったので、そのリハビリの意味も込めて、この「真夏の夜の…夢?」に助演してもらう事にした。
相手役は仙台を基盤にして演劇活動を続けているY氏に東京で1ヶ月暮らしてもらって、参加してもらった。
宿泊はなんと事務所兼私の部屋で、私はその間友人宅を泊まり歩くことになる。
Y氏は靴直しのチェーン店で働いていて、仙台の店を休職して東京の店で働くなどという離れ業ができる人だった。
そんなアットホームな環境での芝居作りで、主役のYも相手役のY氏も、はたまたリハビリ参加のIや新人のT、Wまでもが、伸び伸びとした演技を披露した。
これまた平和な劇団公演で、しかも、理生さんが韓国へ行くのを予見していたように、この年のアリス・フェスは韓国から劇団を招聘していた。
その招聘公演の時には、同じく日本からアリスフェスに参加していた「新宿梁山泊」と一緒に仕込みを手伝い、なんとこの三劇団での合同宴会までも、あくとれで催したのだった。
まさに草の根交流を地で行ったのだが、その時点で既に理生さんは「糸地獄」とは別の海外公演のプロジェクトを抱えたのだった。
実はこの年の理生さんの多作には訳がある。
この前の年に私が長年アルバイトをしていたお店が、経営形態を替え、私はその芝居にも理解のあるアルバイトの場所を失うことになったのだ。
理生さんに相談すると、理生さんは待っていたかのように、自分のマネージャーにならないかと誘ってくれた。
確かに理生さんは映像関係こそ、実相寺昭雄監督の所属する「コダイ」にマネージメントを委託していたが、お芝居の仕事の場合、ほとんどお金にならない場合も多く、又テレビ局などに行く時も、アテンドをしてくれる付き人のような存在を必要としていたのだ。
私としては渡りに船の話だったが、やはり金銭の話で理性さんとの関係が壊れるのを危惧して、かなり少額のマネージメント料を貰い、しかも向こう二年間の契約とした。
そんな訳で、この年と翌年、私と理生さんはほぼ毎日一緒に行動する日が続いた。
そして理生さんのスケジュールと諸々の雑務を私が請け負うことで、理生さんの仕事の量が倍増した、と言う訳なのである。
その頃、理生さんの家から歩いて数分の距離に住んでいた私は、毎朝、理生さんの家へ行き、その日のスケジュールを確認して、お互いの行動を決め、夜は一緒に食事ないしはお酒を飲み、その日の仕事の話と明くる日の仕事の話をしては別れた。
二人ともお酒が好きだったので、仕事が忙しくなればなるほど、酒量も増えた。
もちろん二人で相談しながら諸々の仕事を処理して行くのだから、いままでよりもいろいろな仕事がスムーズに行く。
しかし、このお酒が、実は二人の体の為にはよくなかったようである。
まず私の場合、お酒をいくら飲んでも酔わない、いや、酔えないと言う不健康な状態になった。
そして理生さんの場合も、一人ならば適量で終わる酒が、ずいぶんと増えて行き、ハードな仕事と伴に体を蝕んで行ったのだった。
だがこの時点では、まだ酒の力もポジティヴに働く事が多く、私たちは平和で楽しい夢の中にいるようだったのだ。
「糸地獄」の頃3
そして、またしても「糸地獄」である。
今回は文化庁の担当の薦めもあって、第1回東京国際演劇祭への参加作品として行われた。
演劇祭自体からはたいした補助も出なかったが、演劇祭に参加することによって、この年から始まった日本芸術振興基金からの助成が受けられた。
もちろん、この二つは別物だったのだから、その文化庁の担当の単なるおもわくでしかなかったようだ。
運良く助成の内定を受けたから良かったが、そうでなかったら中止に追い込まれるところだった。
内容的にも国際演劇祭参加作品と言う事で、いわば海外公演に向けての内容に大幅な変更がなされる予定だった。
しかし理生さんはまだこの時点でも海外公演を信じていなくて、和田さんもまた国内公演の決定版になれば良いと考えていたようだ。
ただし劇場も大きくなったので、セットも照明もその分予算がかかり、観客も増やす必要から「糸女」たちというコロスを募集して、大がかりな舞台となった。
予算が大きくなればその分リスクも増す。
実際、それに備えて私自身役者としての参加を断念したにも関わらず、劇場の付帯設備費が予想外に多くかかったりして、結局終わってみれば大幅な赤字だった。
もっともその分観客にとっては迫力もあって、分りやすいエンターテイメントに仕上がっていたと思う。
この公演には、その頃想定していた海外公演のアメリカ以外からも、オーストラリアはアデレイド国際演劇祭のオーガナイザーが見に来てくれた。
このアデレイド演劇祭は二年に一度行われる南半球最大の演劇祭で、ヨーロッパやアメリカとも関連が深く、前々回は転形劇場が招待され、前回は能が招聘された。
この二団体ともにAさんがプロデュースをしていた、その関係でAさんが呼んだのだが、理生さんはAさんを認めていなかったので、公演後自分でオーガナイザーとの接触を図り、そこでまたAさんともめた。
しかし、そんな日本側の思惑とは別に、オーガナイザーは大満足で帰って行き、是非招聘する方向で考えて欲しいとのことだった。
いっこうに進行しないアメリカ公演はともかく、この時点でオーストラリア公演の可能性がにわかに現実味を帯びてきたのだ。
そうして公演終了後、多額の赤字に目を瞑るかのように、私はAさんとアメリカへ下見旅行に出かける。
なにしろ私自身始めての海外旅行なのに、いきなり言葉も不自由な状態で、公演の交渉をしなくてはならないという、とんでもない暴挙だったと思う。
まずはニューヨークのホテルでAさんと待ち合わせ、予定していたラ・ママのホールを見せて貰う。
ほぼベニサン・ピットと同じ程度の小屋で、暖かみのあるまさに「糸地獄」にはピッタリの小屋だった。
しかし、条件は手紙でのやりとりと変らず、小屋代のみ無償で後の作業は劇団側でしなくてはならない。
運の悪いことに、この当時バブルに湧く日本とは対照的にアメリカの景気は最悪で、その分ニューヨークの治安も最低だった。
頼りにしていたジャパン・ソサエティーは、スコットの公演で手一杯で、協力を得られそうも無かった。
もし、この条件で公演をやろうと思ったら、莫大な費用と周到な準備が必要だった。
ロス・アンジェルスはニューヨークとは違って、受入先がしっかりしていたし、公演場所も日米会館で近くにはリトルトーキョーもある。
劇場自体はあまり魅力的ではなかったが、こちらは乗り打ちもできそうな感じだった。
問題はニューヨーク公演だった。
帰国後、私は照明の武藤さんの知り合いで、ラ・ママで長年働いていたという照明マンを紹介される。
そして彼の関係で某制作会社も紹介された。
そして、彼らの力を借りれば、事前に下準備もしてニューヨーク公演をする事もできそうな雲行きだった。
しかし、彼らはこぞってAさんとは一緒にやらない方が良いと言う。
逆に言えば、その制作会社に一任してくれれば、現在進行中の文化庁からの予算ですべてやってあげるとも言われた。
実は文化庁の担当官も、Aさんとはあまりしっくりとしていなかった。
翌年正月、折も悪く湾岸戦争が勃発する。
そしてその頃、アメリカ公演の最終決断をすべく、私は文化庁の担当官と折衝しなくてはならなかった。
「宵待草」の頃4
「糸地獄」の再々演の時、アデレイドフェスのオーガナイザーが見に来た事は書いたが、実はこの時、横浜からも一人のプロデューサーが見に来ていて、翌年3月に相鉄本多劇場で行われる雛祭りフェスティバルへの参加の打診があった。
とにかくたいした予算がないとのことだったので、私は迷わず「宵待草」でよければ再演しますよ、と答えていた。
実際この「宵待草」は旅公演で、私が大きな赤字を作ってから、せっかく手頃なユニットとして出来上がっているのにも関わらず再演の機会に恵まれなかった。
それに雛祭りイベントならば、当然女が主人公だろうから、そういった意味でも丁度良い企画だったのだ。
それにしても、つくづくこの「宵待草」は、「糸地獄」と連続で上演される巡りあわせなのだなあと思う。
しかしどうせ再演するのなら、新しい挑戦もしたいし、前回の旅公演で二人の男優には仕込みも含めてかなりの重労働をさせたこともあったので、今回は外部から男優を招き、それを劇団全体でバックアップすることにした。
いずれにしても、翌年は「糸地獄」のアメリカ公演の為に、すべてのスケジュールを空けていたので、渡りに船と言うタイミングの誘いであった。
さて、その肝腎のアメリカ公演だが、Aプロデューサーさえ切ってくれればすべて面倒みると言う、某制作会社の申し出を、私は丁重にお断りした。
一緒にアメリカに下見に行ったAプロデューサーに遠慮があったとも言えるが、某制作会社のやり方は、文化庁からの膨大な助成が出ると分っていて、それを商売にしようとする匂いがプンプンとしたのである。
もちろん、Aプロデューサーは文化庁とも理生さんとも、あまりシックリ来ていなかったし、それまでの海外公演のやり方がとてもプロと呼べる方法ではなかったが、その分草の根交流の本質を知っていて、私には好感が持てたのである。
それにアメリカ公演はともかくも、オーストラリアのアデレイドフェスは魅力的で、これはどう考えてもAプロデューサーの縄張りだった。
私が理生さんに某制作会社を断った話をすると、理生さんは私の心情には理解を示しつつ、アメリカ公演にはかなり悲観的な予想をしたようだ。
しかし、私はまだこの時点では諦めてはいなかった。
確かに大変ではあろうが、もし申請に通れば、とにかく文化庁からの助成金は半端な金額ではないのだ。
現地での事前の下準備に、その内のかなりの金額を割いたとしても、充分に余裕のある助成が受けられる。
私は悩みながらも文化庁の担当官との最後の面談をした。
お役人とは不思議なもので、私が誠心誠意を尽くして、企画の内容、予算、その他予想される問題点などを事細かに説明している間は、他の審議官と伴に頷いて聞いていたのだが、肝腎の助成の可能性と金額については、いっこうに切り出す気配がない。
そして、一旦休憩を取って、別の場所でもう少し突っ込んだ話をしようということになって、場所を移動する道を歩いている時に、こっそりと耳打ちするように、こう囁くのである。
「3000万でやれるかな…?」
私は驚きのあまり、思わずその顔をマジマジと見てしまった。
そして、ゆっくりとこう答えた。
「はい、充分やれます。」
多分この時点で、文化庁からの助成が私たちのような弱小劇団にもおりる事が分り、もう既に私の中では勝負が付いたと感じていた。
後は面倒で複雑な作業が残っているだけで、本当に「糸地獄」のアメリカ公演をやりたいのかどうかが分らなくなってしまったのだ。
場所を移動すると、今度は私に本音を聞きだそうとする。
そこで私もAプロデューサーと岸田の仲がシックリこない事、現地での事前のスタッフワークに不安がある事などを話した。
それからオーストラリアからの招聘の話もして、こちらの方はフェスティバル側がキチンとしているので、あまり不安はないとも伝えた。
すると担当官は、もしこのアメリカ公演ができなくなっても、オーストラリア公演に別枠で助成する事もできると言い出した。
そして、アメリカ公演に関しては、もう一度劇団に帰って本気でやる意志があるかどうか、それを見極めた上で返事が欲しいと言うのだ。
私は悩んだ。確かにアメリカ公演を無理してもやれば、劇団にはお金も残る。
しかし果たして無理矢理にアメリカ公演をして、ただでさえたくさんのトラブルが予想される公演が終わって、劇団自体が存続できるだろうか?
そして私は理生さんに最後の相談をした。
「理生さん、アメリカ公演、中止にしてもいい?」と。
「メディア・マシーン」の頃
私がアメリカ公演を諦めた経緯について説明すると、理生さんはそんなことは始めから分っていたと口では言いながら、どこかホッとした表情を見せた。
理生さんの中でもまだこの時点では海外公演に対しての警戒感が残っていて、機が熟していなかったのかも知れない。
私は翌日文化庁の担当官に、今回のアメリカ公演を辞退する旨を伝え、その条件としてオーストラリア公演への助成と、プロデューサーであるAさんの顔を立てる為に一芝居打つ事をお願いした。
あくまでもアメリカ公演は文化庁の都合で中止を決定したことにしてもらい、その理由は、湾岸戦争の余波が予想よりも激しくて、アメリカ公演が難しくなったと言う事にしてもらったのだ。
そして、Aプロデューサーの力によってオーストラリア公演が実現できるのなら、文化庁としてもアメリカ公演中止の代替助成ができると申し出てもいただいた。
Aプロデューサーも、この文化庁の申し出に納得したらしく、満足げであった。
そうして長年にわたって準備をしてきたアメリカ公演は、この時点で中止が決定したのだった。
その後の劇団の移り変わりを考えると、この時点でアメリカ公演をやっていようがいまいが、所詮長続きはしなかったのだろうが、私としてはこのアメリカ公演の撤退は劇団の存続の為に仕方のない選択だと思っていた。
そして、文化庁との関係さえうまくやっていれば、今後もっと条件が良い時にアメリカ公演もできるとも思っていた。
劇団員には「湾岸戦争の為」という、もっともらしい言い訳をして、その経緯を話した。
オーストラリア公演は翌年の3月だから、その間何をやるべきかも皆で話した。
夏ころに一本、劇団創立メンバーの女優で一番若手だった、Kを主役にした小さな公演を既に企画していたが、他の俳優たちは全く何も決まっていなかったのだ。
私たち俳優は、この際だから自分達でグループを作って、いままでやれなかったような作品を作れないか模索する事にした。
年上の女優達は4人で集まって何かをやろうと考えたし、私もまた糸地獄の主役をかかえるIや、若手男優のI、Tなどと、発表会を企画し、これが後の「プロジェクト・ムー」に変化していく。
若手の女優たちも数人で発表会をやることになり、これが後に「タマリンド」と言う集団の母体になった。
理生さんは、アメリカ公演が無くなった事で、逆に真剣に海外公演の事を考え出したようだった。
前年から始まっていたHMP(ハイナ・ミュラー・プロジェクト)は、海外事情を知る為に恰好の企画で、ミュラーをキーワードにして数人の演劇関係者が集まって、勉強会を開いたり、ヨーロッパの演劇祭に行ったりしていた。
そのメンバーに、シアターグループ太虚(たお)のSさんと言う演出家がいて、理生さんと組んでミュラーの作品を公演にしようとしていて、その第一弾がこの「メディア・マシーン」である。
理生さんは、このミュラーの作品に手を入れる事で、自分の作品を海外に持っていく時、何が有効なのかを試行錯誤していたとも言える。
Sさんは、もとSCOTの俳優のリーダーで、向島に大きな倉庫のアトリエを借りていて、その廃屋のような場所を使っての公演だった。
理生さんとSさんとは、この後しばらくは大変仲が良く、これ以後も何回もプロジェクトを組むことになるのだが、この公演がその端緒となった。
私たちの劇団からはトップ女優のTと、何故か私がSさんに乞われて出演した。
もっとも、Tはセリフも多く舞台の全面に出ていたが、私は「料理人」の役で、舞台奥の厨房で料理をしたり、その料理を舞台に運び込むだけだった。
そして、それ以降付き合いが始まる音楽家の斎藤徹氏もまた、この時が最初の出会いであった。
こうして私たちは、アメリカ公演が無くなったその穴を埋めるように、それぞれ次のステップへの助走のような活動を始めたのだった。
そしてもう一つ理生さんにとっても私にとっても重要な仕事となる「アジア女性演劇会議」もまた、この頃既に動き始めていたのである。
アメリカ公演はなくなったものの、私たちの海外に向けた眼差しは、さまざまな形で既に確固とした形になりつつあったのだ。
「WALTZ」の頃
劇団の創立メンバーの女優たちに充てて、まるで遺産を残すように一本づつ座長芝居を書いて来たが、最後まで残ったのがKだった。
彼女は創立時まだ大学生で、メンバーの中でも若く、逆にそれだけに外部出演の機会も多かった。
しかし、やはり自分自身の為に理生さんが書いた作品を欲しいと思っていた。
そうした要請の中で、アメリカ公演の有無に関わらず、このお芝居の企画は動いていた。
ただ、当初はKの相手役をやるはずだった男優のNが、酒の席でのちょっとしたやりとりのすれ違いから、劇団を辞めてしまい、相手役はIに変った。
Nもまた創立メンバーで、理生さんの外部作品には多く出演していたのだが、いっこうに改善しないバイト生活と劇団への不満を募らせていて、それがひょんなキッカケから理生さんとの決別を意志させたようだった。
もっともNとの関係は劇団解散後、再び始まったので、完全に理生さんと決裂した訳ではなかった。
そんなトラブルにも関わらず、Kの気持ちは微動だにしなかった。
タイトルをドイツ語表記にしたのも、スタジオあくとれをカフェのように改装して使うプランも、K自らが理生さんとの打ち合わせで決定した。
私は企画の段階ではその打合せには参加しなかったが、「糸地獄」に助成してもらった「日本芸術文化振興基金」への申請を「WALTZ」で行う事で、側面から応援していた。
物語の内容は、第二次世界大戦前のドイツで、清潔と統制を求めて来る世間と政治体制の中、そうした雑音とは別に愛と性に溺れる一組の男女を描いたものだ。
まだ暑い9月の公演で、エアコンのないあくとれでの稽古は灼熱地獄であったが、主演のKもIもOも、重要なコロスを演じる若手たちも気持ち良さそうに汗を流していた。
さて、この「WALTZ」と同時並行で三つのグループがあって、それぞれがいままで劇団ではできなかったような企画を発表する予定だった。
まず一本目が若手女優のグループによる発表会。
冒頭、太鼓を使って基本のリズムを打ち鳴らす。
その後は、それぞれのやりたい芝居の断片を繋げたものであったが、非常に節制された好感の持てる発表会であった。
次の一本は石井と言う一人の若手男優が理生さんに「ゴドーを待ちながら」をやってみたらと言われた所から始まった。
理生さんの唆しをまともに受け取った石井は、その相手役に私を選び口説いてきたのだ。
私はビックリしながらも、悪い気はしないので、快く引き受けた。
そんな二人に何人かの賛同者が現れ、総勢6人のグループが出来あがり、「ゴドー…」の一部分を中心にいくつかの場面の断片で発表会を行った。
そして最後の一本は、それぞれ座長芝居を書いてもらった熟年女優4人が、話し合って一本発表する予定だった。
ところがこの一本は途中で空中分解してしまう。
普段は仲良しの4人なのだが、こと舞台を一緒に作るとなると、いろいろな無理があり、話し合いが酒席に移る頃には、ほとんど喧嘩状態になり、結局発表会も出来なかったのだ。
おまけに雛ちゃんなど、少し精神的にもおかしくなってしまい、しばらくの間、劇団員と顔も合わせられなくなってしまった。
アメリカ公演がなくなって時間が出来たことにより、役者たちがやりたいことが出来たはずなのに、逆に自由にやろうとすると何もできなくなってしまったのだった。
このあと翌年2月~3月に決まっていたオーストラリア公演まで、まだ半年もあったのに、その間なにもなくて、彼女たちは一体大丈夫なのだろうか?
「糸地獄」は主演のIこそ「ゴドー…」に参加して、私などと一緒に楽しんでいたが、彼女たち4人の「糸地獄」における役のウェイトはI以上だったのだ。
おまけにオーストラリア公演では「糸地獄」の解体を希望している理生さんと、そのままオリジナルを上演したい和田さんとの間にも、冷たい風が吹き始めていた。
「WALTZ」はそんな不安定な劇団状況の中、それでもアトリエ公演独特の居心地の良さを感じさせる幸福な舞台となった。
「ITOJIGOKU」の頃
さて、「糸地獄」オーストラリア公演である。
アデレイドとパースの、二つのフェスティバルからの招聘があった。
何かと問題のあったアメリカ公演と違って、両フェスティバルともに受け入れ態勢は万全だった。
宿泊場所もまずまずのホテルだったし、パーディアムと呼ばれる食費も相応な金額が支給された。
セットも照明も、かなり大掛かりだったのにも関わらず、ほとんど要求通りのものが用意され、おまけに劇団単位ではあったがギャラまで支払われた。
渡航費は出なかったが、これは国際交流基金に申請して助成がおりていた。
おまけに以前にも書いた通り、文化庁からも制作費としての特別助成がいただけることになっていた。
ただし人間関係と肝心の作品の内容については、問題含みだった。
プロデューサーのAさんは、得意のオーストラリア公演と言うことで、あまりキリキリすることもなく、ここまで決まってしまえば、後は劇団について行って社交するくらいなもので、理生さんとも特にトラブルになることもなかった。
劇団員同士のトラブルから、雛ちゃんが少し精神的に弱くなっていて、それについては長年の連れ合いである諏訪部さんを俳優として同行してもらうことで、なんとかなりそうだった。
一番の問題は理生さんと和田さんの間にあった。
アメリカ公演が挫折した時、理生さんは「オーストラリア公演に関しては、全くの白紙状態から順番に進めましょう」と言った。
制作的には手順を踏んだし、上に書いたように、受け入れ側がしっかりしていたので、ほとんど問題もなかった。
問題となったのは内容の事だったのだ。
理生さんは海外公演を射程に考えてから、何が海外で有効で、何が無効かと必死で考えていたようで、それに即して脚本も全面改訂をしたがっていた。
それとは逆に和田さんは、これまでの脚本と演出に確固たる自信を持っていて、海外だからと言って、簡単に改訂しない方が良いと思っていた。
理生さんは改訂版のシノプシスを和田さんに提示して、その答えを待っていたが、和田さんは、それに対して明確な答えを出そうとはしなかった。
理生さんはそんなかたくなな和田さんを誘って韓国に連れて行く。
三人で韓国行きの飛行機に乗った時など、私はこの旅客機が落ちて、そのまま三人ともに死ねたらどんなにか幸せだろうと夢想した程、二人の関係は行き詰まっていたのだ。
ところがこの韓国旅行が功を奏したらしい。
韓国で見たキム・アラさんの舞台に感じるものがあったとも言えるし、その舞台で音楽監督をやっていたキム・ミョンファンさんとの出会いも良かったようだ。
それまで既成の音楽を使っていたのが、フェスティバルでは著作権の関係で使えなくて、オリジナルな音を作らなくてはならなかったのだが、その音楽をキム・ミョンファン氏に依頼し、その音の変更によって、おのずと作品の流れが改訂されたのだ。
そしてその音楽の部分の演出を理生さん自ら引き受け、共同演出のいわば棲み分けができたのだとも言える。
パースのホテルは大きな川沿いにあって、仕込みの日の朝、私がその川の方におりて行くのを見て、舞台監督がこう言ったという。
「宗方ちゃん、今にも自殺しそうな顔して川の方に行くもんだから、飛び込むんじゃないかと心配しちゃったよ。」
初の海外公演で緊張していたのと、ようやくここまで漕ぎ着けたと言う安心感で呆けていたのが、そう見えたようだ。
このオーストラリア公演に関しては、制作的にもスムーズにいっていたので、私も俳優としてワンシーンだけ出ることになっていた。
パースの2月は真夏で、昼間は40度を越す気温だった。
公演場所は中庭のような場所に作られた野外劇場だ。
仕込みで汗を大量に流し、場当たりと稽古でまたまた汗を流し、そうして本番を迎える。
現地のスタッフは本当によくやってくれたし、観客はなんと満員御礼だ!
初めてのスタンディングオベーションに体を震わせながら終演した初日、フェスティバルのオーガナイザーが近くのレストランでパーティーを開いてくれた。
劇団員はみな一様に興奮していた。
ほんの一杯づつくらいしか飲まなかったのにも関わらず、顔は紅潮していたし、声は自然と高くなっていた。
レストランからホテルへの帰りのバスまでの間、みんなでハシャギながら歩き、途中で記念写真を撮った。
多分いままで私が経験した芝居人生の中で、いちばん最高潮の夜だったと思う。
その日のみんなの笑顔を私は一生忘れない。
「隠れ家」の頃
とにかくこの「糸地獄」オーストラリア公演は大成功に終わったと言っていい。
批評記事も地元新聞に留まらず、英国の著名な評論家から激賞された。
毎夜毎夜のスタンディングオベーションに、それが当たり前なのだと勘違いしてしまう程だった。
もちろん初めての海外公演としては制作的にも大成功だったと思う。
なにしろ、思い通りの公演ができて、なおかつ赤字にもならなかったのだから。
ところが、私はこの公演を実行するにあたって、劇団員には日本に不在の間の家賃くらいはギャラとして支払えるかも知れないと言っていたのに、だんだんと予算的にも厳しくなり、とうとうその約束は果たせなかった。
劇団員の金銭感覚が狂っていたとも言えるのだが、とにかくそんな事が契機となって不満が爆発しそうだった。
オーストラリアから帰ってきてから、次の劇団公演「隠れ家」の12月まで、何をしていたのか記憶がない。
理生さんはもう一つの海外公演「セオリ・チョッタ」(イ・ユンテク演出)もあったし、DA・Mの「女シリーズ」や、演劇集団・風や、元祖演劇の素・いき座にも本を書いていて、それなりに忙しくはしていた。
それからもう一つ、劇団の若手女優のみを集めて、理生さん自らがワークショップも開いていて、これが後の「タマリンド」の基盤となった。
しかし私たち古くからの劇団員はその間、一体何をしていたのだろうか?
私は既に劇団を辞めていく事が決まっていた若手男優の石井と「ゴドーを待ちながら」の発表会をやり、これは後の「プロジェクト・ムー」の基盤になった。
他の劇団員も、いろんな想いを持ちながら、でも結局何もできないでいたような気がするのだが、ほんとうのところは定かではない。
とにかく、オーストラリア公演以来、劇団員の心がバラバラになっていた事だけは確かだった。
それでも、この年12月にはこの「隠れ家」と言う新作が劇団公演としてあり、翌年の3月には岸田理生個人のプロジェクトとして「カルテット」と言う作品が行われる事は、二本とも既に助成がおりていたので確実だった。
この「隠れ家」は、そんな劇団末期の状態で行われ、結局この公演が「岸田事務所+楽天団」の最後の公演となった。
近未来のある国で、民族浄化と監視社会を予感させる、ちょっと不気味な物語だったと思うが、実は今ひとつよく覚えていない。
椅子を使ったパフォーマンスとか、音楽にあわせた滑稽な動きとか、後に使われるようになるさまざまな要素があり、部分部分についてはよく覚えているのだが、全体の記憶が朦朧としているのだ。
上演後の評判は、別にいつもと比べて極端に悪いわけではなかったが、劇団員の結束はなく、一人一人のモチベーションも明らかに低かったと思う。
いや、もっと言ってしまえば、その後に「カルテット」と言う個人プロデュースの作品が控えていて、それには劇団の力が必要だったので、とにかくそれが終わるまでは、当たらず触らず問題を顕在化しないように、先延ばしにしていただけだったとも言える。
つまり理生さんと私としては、暗黙の了解として、「カルテット」が終わったら劇団を解散しようと、既にこの頃思っていたのだった。
だから、私にとってこの「隠れ家」は、劇団が手仕舞いにかかっている時に行われたという意識が大きく、ほとんど公演をした実感が湧かないものだったのだ。
「岸田事務所+楽天団」と言う劇団の解散については、原因はさまざまにあって、決して一つに絞ることなどできない。
しかしともかくも、「糸地獄」のオーストラリア公演という、きらめく様な成果を幕引きに、ワークショップ、再演を含めて27本の公演数を残して、劇団としての終焉を迎えたのだった。
その期間は1983年から始まって、1993年までのほぼ10年間であった。
番外公演3
この年、理生さんにとっても、私にとっても重要な出来事が起きた事を書き忘れるところだった。
それは「第一回アジア女性演劇会議」の開催である。
このプロジェクト自体、3年程前から時間をかけて進められてきて、その準備段階から私も実行委員として関わってきたし、理生さんにとっては、同時並行で進んでいた「糸地獄」海外公演と「セオリチョッタ」日韓合同公演、HMPなどと併せて、海外に目を向ける契機になった企画でもあった。
ある寒い雪の日、如月小春さんが理生さんの自宅を訪れるところから、このプロジェクトは始まった。
1988年の秋にニューヨークで開かれた「第一回世界女性劇作家会議」に出席した如月さんが、その会議の内容がどうしても西洋のフェミニズムの論理で進んで行く事に違和感を覚え、知らず知らずアジアの出席者同士で話す事が多くなり、その結果アジアの女性たちだけで会議ができないものかと考えたらしい。
実はこの「第一回世界女性劇作家会議」は理生さんにも招聘状が届いており、国際交流基金の人物交流部から渡航費もおりていたのに、理生さんは直前になってスッポカシていた。
そんな負い目もあったし、丁度他のプロジェクトでも海外に目が向いていた時期でもあったので、一緒にやらないかと言う如月さんの誘いを、理生さんは快く引き受けた。
それから会議の実行委員の人選、事務局の設定、アジアの女性演劇人たちの情報収集、会議の内容を決める為の勉強会などが何度も開かれた。
それまで全く考えてもいなかったアジアの女性演劇人たちの情報は、会議が開かれる前から興味深いものだった。
如月さんの政治力もあって、国際交流基金以外にもセゾンや三井などからの助成が得られ、アジア十カ国から二十名が来日し、5日間の会議の他に三つのリーディングと四つのワークショップ、そして招聘公演も一本やることができた。
しかも、東京だけでなく京都でも会議と公演を、神戸でも公演を行った。
この招聘公演については、実行委員の一人でもあった李静和さんの薦めで、理生さんとも懇意にしていた、韓国のキム・アラさんと劇団舞天を呼ぶ。
そして私の役割は、この招聘公演担当の制作だった。
公演場所が東京は渋谷ジアンジアンで、京都は無門館と、神戸以外は慣れた劇場だったので、言葉もまともにできない私ではあったが、なんとか気持ちよく公演してもらう事ができた。
アラさんとはもう何度も顔を合わせていたが、後に一緒に芝居をすることになる俳優のジョン・ギュースー氏と、舞台美術のパク・ドンウ氏とも、この時知り合った。
公演担当だった為に肝心の会議の方は、あまり見られなかったが、だいたいの内容はニュースレターなどで分かった。
なにしろ初めての試みだったので、お互いに自分を紹介しあうのに時間をとられ、内容に関しては決して深いものではなかった。
しかし、これを契機に次回へと繋がっていけば、徐々にお互いを理解し、討論もできるようになるとの予感はできた。
実際には第二回の開催がなかなか思うようにいかず、継続はそう簡単なものではなかったのだが…。
オープンな会議はイアホンを使った同時通訳システムで行われたが、クローズドの会議や打ち合わせなどは英語が基本である。
だから英語の苦手な私にとっては、公演という慣れた現場で助かった。
とは言え、どうしても話さなくてはならない場面も多く、「糸地獄」のオーストラリア公演の時同様、片言の英語を使わなくてはならなかった。
私の芝居人生を通して、こんなにも英語を話した年は、この年だけだったと思う。
アジアの人たちとの交流なのに英語が共通語という皮肉な場面だが、むしろアジアの人との交流だからこそ英語が有効だし、この際片言でも構わないと言うことも知ったのだった。
「カルテット」の頃
岸田事務所+楽天団は作品としては「隠れ家」を最後に、その活動を終了する。
しかし、その後もこの「カルテット」が、岸田理生の個人プロデュース作品として上演され、その終演を待って、私たちは劇団員に劇団の解散を諮った。
と言うのも、この「カルテット」もまた劇団の役者のみによって上演され、その制作母体はやはり劇団だったからだった。
もともとフランスの文学者ラクローの「危険な関係」と言うメロドラマを、ハイナ・ミュラーが翻案したのがこの「カルテット」だった。
ハイナ・ミュラーの作品については、既に「メディアマシーン」と言う形で、理生さんとしての決着を付けていた。
だからこの「カルテット」では、ドイツ演劇専門の谷川道子さんに翻訳をお願いして、その翻訳台本をそのまま使って上演した。
谷川さんもまたHMPのメンバーで、理生さんたちと一緒にハイナ・ミュラーの作品を研究者の立場から、勉強会をしたりヨーロッパに旅行に行ったりしていたのだ。
またこの頃、韓国の舞台美術家パク・ドンウ氏が文化庁の招聘によって、半年間の留学をしに来日していた。
その受入先が劇団だった関係もあって、この「カルテット」の舞台美術をお願いした。
芸術振興基金からの助成もあって、スタジオあくとれと相鉄本多劇場の二箇所での上演が行われた。
制作母体は劇団だったものの、形としては理生さんの個人プロデュースだったので、出演していない劇団員の労力には頼れない。
芝居の内容はかなり前衛的で、当時としては画期的なものだったが、公演規模としては、チケットの販売も含めて、いつもの劇団公演よりも、一回り小さなプロジェクトになってしまった。
その評判もまずまずだったが、私の実感としては劇団終焉の爛熟期に行われた、空虚感の伴う寒い実験劇だった。
そうして、この公演が無事終了し、その清算その他の為に開かれた劇団総会で、私たちは劇団の解散を提案した。
もちろん「カルテット」に参加したメンバーは事前に察知していたと思うが、基本的には総会までは正式な話にしなかった。
劇団の解散の提案を受け、劇団員はさまざまな反応をした。
特に演出として一番劇団に深く関わってきた和田さんは、どうしても納得できない様子だった。
「僕は一人でも劇団をこのまま続けたいと言う人間がいる限り、解散はできない。」と強く主張した。
理生さんとの共同主宰で行われてきた劇団だから、その一方の主宰者が劇団を止めたいと言っているのに、この主張はナンセンスだと思った。
しかし、理生さんとしては、この言葉を渡りに船と、「では私は個人的に退団します。」と言って、そのまま総会の席を立ってしまったのだ。
劇団解散と言うことになれば、理生さんに対する世間の見方も冷たくなって、さまざまなことを言われることを覚悟しなくてはならない。
しかし、退団と言う形で和田さんに劇団を存続させれば、理生さんに批判が集まることもないと思ったのだ。
この理生さんの反応もまた、ナンセンスだとは思ったが、結局この手の話し合いは売り言葉に買い言葉、じっくりと意見を言い合う余裕もないものである。
私としてはキッチリと解散公演などを行って、世間的にも納得の行く方法で解散をしたかったのだが、こうなったら仕方ないので、「では私も個人的に退団します。」と言って、総会の場を出た。
結局数人を残して、ほとんどの劇団員が劇団を退団することになり、やはりこれは実質的には解散状態になってしまったのだった。
前回の哥以劇場解散の時は、解散後即座に「岸田理生事務所」を立ち上げたが、今回は私はそうしなかった。
劇団員の想いが、前回と違って、あまりにもバラバラだったからだ。
しかし劇団の若手、特に理生さんが最後にワークショップをやっていた数人に対しては、なんらかの集団を作り理生さんとコンタクトを取り続けるように示唆した。
私とか雛ちゃんとかは、個人的にも理生さんと直接話すこともできたが、彼女たちは劇団がなくなれば、その経路もなくすのではないかと思ったからだ。
そうした経緯で作られたのが「タマリンド」と言う名の集団だった。
そして、理生さんは理生さんの活動を、私は私の活動を、他の退団したメンバーも其々別々の活動を行うようになるのである。
もちろんまだ一緒に舞台を作るのだが、その形は「劇団」ではなく、一つ一つのプロジェクトとして行われるようになったのだ。
こうして、私たちは懲りずに、二つ目の劇団を分解した。
「花」の頃
二つ目の劇団が実質的に解散してからは、私と理生さんの関係は微妙な状態でしたよね?
ある時は役者として出演したり、またある時は制作のみの参加であったり、はたまたある時は、全くのノータッチであったり、その時々で関係が変わったんですから。
だから、ここからは私がなんらかの形で参加したプロジェクトのみに絞って、書いて行こうと思います。
その第一弾がこの「花」と言う作品だ。
まだ劇団を退団する前から、岸田理生個人として芸術文化振興基金に申請をしていたので、自動的に私は制作と役者を兼任することになる。
会場はその頃、転形劇場を解散させていた大田省吾さんが劇術監督を任されていた、湘南台市民シアターである。
出演は男優四人で、私の他は、遊◎機械全自動シアターに客演をしていた陰山泰、舞踏家の柴崎正道、それに韓国からジョン・ギュース氏を招いて行った。
わずか一日のみの公演であったが、全く出自の違う男優4人の稽古場は、刺激的で新しい発見に満ちていた。
理生さんとしても、初めて韓国の俳優を演出すると言うことで、かなり神経質に気を使って慎重に稽古を進めていった。
いくら助成金が出ているからと言って、やはり海外から俳優を一人稽古から参加させれば、その分経費はかかる。
だから舞台製作にはほとんどお金をかけられなかった。
でも、湘南台の劇場自体が球形の宇宙を思わせる設計だった為に、人がスポットに当たっているだけで絵になるのだった。
円形にもなる舞台の半分だけを客席にし、残った部分の客席ユニットをまるで記念碑のように立てて、あとは四人の俳優が持ち込むタンスと小箱と傘などの小道具のみ。
別に大田省吾さんの沈黙劇を意識した訳ではないと思うが、極端にセリフを廃し、俳優の動きと行為によって4人が出会い別れるまでを、きめ細かく演出した。
ギュース氏は既にキム・アラさんの来日公演で知り合ってはいたが、韓国ではプンバと言う乞食芸で有名な俳優で、その芸の力は相当なものだった。
そんな彼も私たちの暖かい受け入れに充分満足した様子であった。
さて、この公演の前後に上演された、私の参加していないプロジェクトについても少し触れておこう。
前回書いたように、私が劇団を退団するにあたり、理生さんのワークショップをやっていた若手の女優たちに、なんらかの集団になっておくように示唆した。
それにしたがって4人の女優によるユニットが出来、名前を「タマリンド」と言った。
その彼女たちと理生さんによる「旅人たち」という公演が行われた。
基本的にワークショップの総集編的に行われた実験劇だが、当然ながら、この「花」と相似している部分もあった。
それから、もう一本「恋其之四」と言うお芝居が行われた。 これまた芸術振興基金とセゾン文化財団からの助成が決まっていたので、理生さんに脚本料を払って和田さんが書かせたものだった。
この少し捩れた関係は、台本の遅れと言う事態を招き、そのまま舞台にも影響したようだが、旧劇団員にとっては、なんらかの形で理生さんの脚本との決着をつけておきたかったのだと思う。
旧劇団員以外にも龍昇さんとか佐藤和代さん、土居通肇さん、森下真里さんなどにも客演をお願いし、なかなかに多彩な顔ぶれの不思議な舞台だった。
こうして、劇団としてはバラバラになってしまったのに、何らかの形でまだまだ関係を続けていた私たちなのであった。
この二本とも私自身現場にはタッチしていなかったものの、理生さんとの間に入ったりして調整役をしなくてはならなかった。
この年の秋に彩の国さいたま芸術劇場の柿落とし公演が決まっていて、これには和田さんも深く関係していた。
だから、私としてはこの公演が終わるまでは、劇団の清算も終わらないと覚悟してもいたのだった。
「宵待草」の頃5
理生さんの場合、物事を進める原動力に「意地」が強く働く事が多い。
そんなつまらない意地を張らずに、もっと素直になれば生き易いのにと思うのだが、私がその事を指摘すると必ず「それがなくなったら岸田理生じゃなくなるでしょ?」と言うのだった。
岸田事務所+楽天団の女優達一人一人に、まるで形見わけのように一本づつ作品を書いたことは、既に触れた。
それなのに、劇団が散会状態になっても、誰からもその自分に与えられた作品を再演したいという要請はなかった。
これは皆が女優だから、自分では制作なり企画なりができなかった側面もあるが、それよりも劇団だったからできた作品と言う感覚が強く、自分の為に書かれた作品と言う意識が少なかったのだと思う。
正に親の心、子知らずで、作家が意識する程には、書いてもらった俳優側には自分の作品なのだとの想いは少なかったのだ。
この「宵待草」はそういった意味でも、最も矢面に立つ作品で、既に女優Tの主演によって4回も上演の機会を得ているのだから、もう少しTも自分の作品として意識して欲しいと思っていた。
私はこの時、制作には一切関わらず役者のみでの参加だったので、この再演の契機にどんなやり取りがされたのか、詳細は知らない。
しかし、理生さんの性格から「Tが自分でやらないのだったら、私がやってみせるわ。」との気持ちが働いたことは容易に想像できる。
もちろん、この時も事前にTには上演する旨を伝えただろうし、その時Tが「これは私の為に書いてくれた作品でしょう?だったら、私以外の人で上演しないで欲しい」と言っていれば、意外と簡単に企画を取り下げたと思うのだが、現実にはTはそうは言わなかったのだと思う。
そうしてこの「宵待草」は、主演をTから雛ちゃんに変え、演出も和田さんから理生さんに変わり、諏訪部さんのプロデュースと言う形で行われた。
つまり単に女優のTを意識しただけではなく、演出の和田さんをも強烈に意識した意地の公演だったのだと思う。
それにしても、因果な作品もあったものである。
劇団の旗揚げ公演の前に行われ、劇団の節目節目に再演を重ね、劇団がなくなった後も、それぞれの想いの発露の場として上演されたのだから。
もちろん、そうして取り上げられるだけの、しっかりした作品だったと言う事も出来る。
理生さんの志向としては、既にこの時「国境を越える演劇シリーズ」に向かっていたにも関わらず、旧劇団と劇団員に対して、なんらかの決着を付けたいとの想いもあったのだろう。
この頃の作品にしては珍しく、外国人が一切関わっていない、ドメスティックな作品だった。
雛ちゃんは、そうしたしがらみがあったにも関わらず好演し、私と諏訪部さんも歴代の男優陣に劣らない演技ができたと思う。
全く助成を受けない小さな企画だったが、その後の「岸田理生カンパニー」の基盤ができた公演でもあった。
劇団時代の作品の再演だったこともあって、まだ劇団で公演をしているような気がしたものだ。
そして、次の「鳥よ鳥よ青い鳥よ」のビッグプロジェクトに繋がってゆくのだが、私自身この次回公演までは理生さんと、緊密に付き合ってゆくつもりだったのだ。
その後は、旧劇団の事後処理も終わり、理生さんとも一線を画した付き合いをするつもりだった。
そういう意味でも、この「宵待草」は役者として参加する最後の劇団公演という感覚が強い。
「鳥よ鳥よ青い鳥よ」の頃
どうも物事にはタイムラグが付き物らしい。
既に劇団は二年前に辞めていたし、劇団員もそれぞれ違う活動に入っていたにも関わらず、この「鳥よ鳥よ青い鳥よ」だけは旧劇団時代に立ち上がった企画だったので、中断するわけにはいかなかった。
それ故、和田さんにも企画と言う形で参加してもらって、実質は理生さんが自分のやりたいように舞台を作った。
主催は「彩の国さいたま芸術劇場」で、柿落としとしての特別予算が組まれていた。
私は、予算規模が大きかったのと、劇団のゴタゴタで劇場側に迷惑をかけられないとの判断で、制作のみの参加となった。
チラシ等のクレジットも載らない代わりに、キッチリと制作ギャラをいただいた。
世の中はバブル崩壊して数年経っていたが、地方自治体はまだバブリーな企画が温存されていたのだ。
私だけでなく俳優もスタッフも劇団時代とは一線を画した待遇だったし、もちろん理生さんにも作・演出料が支払われた。
俳優のメンバーはタマリンドの三人と、雛ちゃん諏訪部さん、それにこの時から竹広さんが加わった。
それから高田恵篤と柴崎正道にも助っ人で参入してもらった。
母国語を奪われて、キブリゴと言う言葉を強要されている人々がいる。
母国語を使い続ける為に、隔離され監禁されている男がいる。
そこに一人の少女が空の鳥かごを持ってやってくると、街の人々に変化がおとずれる。
舞台美術は韓国のパク・ドンウ氏にお願いし、韓国の古い鍋釜や拡声器を持ち込んだ。
音楽は石母田守さんにお願いし、韓国に古くから伝わる「セヤ セヤ パランセヤ」の変奏曲を作ってもらった。
広い舞台面を埋める為に、両サイドの階段を永遠に上り下りする老人少年のコロスを使った。
照明音響舞台監督は、オーストラリア公演と同じメンバーで揃えた。
観客の入りは今ひとつだったが、舞台成果としてはまずまずだった。
評論家のKは、禁じられた言葉を本来は強制した言語たる日本語にした事に違和感を感じると書いた。
しかし、親日家で知られるポーランド大使は、これはわが国の話だと言い、単に朝鮮半島での出来事に矮小化して見ない視点を持ってくれた。
実際に舞台は無国籍風に出来ていたし、取り戻した言語の象徴をして使われたイ・ユクサの詩は、日本語に翻訳されても充分に美しく悲しいものだった。
そして、この言葉を禁じられる話は、岸田理生カンパニーとしての最終公演「ソラ ハヌル ランギット」に進化を遂げ、展開していくことになるのだが、この時点ではまだそんな話はどこにもなかったのである。
そして、私はこの公演を最後に理生さんとの距離を一歩広げて行った。
具体的には翌年の助成金の申請手続きを別の人に任せ、自分は自分で別の公演を企画したのだ。
それから今まで中野の理生さん宅から、歩いて1分のところにあったアパートを引き払い、高円寺に引越しをした。
つまり100メートルしか離れていなかった距離を一駅分に広げたのだ。
理生さんも理生さんで、ちょうどその頃蜷川さんとの共同作業が始まろうとしていた。
お互いに本当に必要ならば、また自然に近づいて行くと信じていたとも言える。
本来劇団を辞めた時点でそうなるハズだった、お互いを客観的に眺める時間が2年遅れでやってきたと言う訳だった。
番外公演4
この時期、私自身の活動としてなにをやっていたかと言うと、劇団時代に石井とやったワークショップ「ゴドーを待ちながら」の英語版を、木のアトリウムと相鉄本多劇場で一回ずつ公演をした。
それが終わると、今度はその石井が自分でプロデュースして、アラバールの「ファンドとリス」をやりたいと言い出したのだ。
私はもちろん全面協力するつもりで、まず演出を誰にするかと言う話になって、やはり和田さんがいいだろうということになった。
石井にしても私にしても、和田さんとの決着がまだ付いていないとの想いからの選択だった。
ところが、和田さんに話をすると、その内容よりも場所に拘って、どこか野外でやれないかと言い出したのだ。
和田さん、無理難題をを持ち出したものだと思いながらも、ダメで元々と以前からお世話になっていた横浜の一宮さんと松田さんに相談してみた。
すると、ちょうど横浜アートウェーブと言う名前で、一本海外からの招聘公演を考えていて、それと抱き合わせでよければ、みなとみらいの敷地のどこかで野外劇も可能だとの返事だった。
そこで和田さんを連れて数箇所の候補地を見に行った。
ランドマークの横のドックヤードガーデンとか、臨港パークとか、いろいろと見せられて、結局横浜美術館前の広場が一番魅力的だった。
ただ、野外と言うことになると、予算規模が膨れ上がってしまって、プロデュースの石井に負担がかかってしまう。
しかし石井は100万や200万くらいの負担ならかぶってもいいと言うのだった。
それならば本気で考えようと、私はもう一本の海外からの招聘公演と提携し、チラシ、客席、照明、音響など、連携できるものはすべて連携して、なるべく予算を削るように企画を立てた。
幸い、横浜市からもみなとみらい21からも助成が得られた。
それから今度は脚色を誰に頼むかと言う話になって、無理を承知で鄭義信さんにお願いをすると、和田さんの演出ならばやってもいいと言う。
そこから今度は出演者の交渉を始めたのだが、話はどんどん膨れ上がってしまって、旧劇団員以外にも高田恵篤とか川中健二郎とか、実力派の俳優が集まった。
野外劇で予算オーバーなのは承知の上だったのにも関わらず、石井は演出にも脚本にも、そして出演者にもギャラを出すという見栄を張った。
その後、数年かかって、その借金を返済しなくてはならなかったのだから、無理をしない方が良かったともいえるが、皆はその事を意気に感じて、寄せ集めだったにも関わらず、かなり充実した野外劇に仕上がったと思う。
この時お頼みした音楽の石母田さんとも、舞台監督の田渕さんとも、その後何度も一緒にやることになるのだが、その端緒となる公演でもあったのだ。
1994年の10月に「鳥よ…」が行われ、1995年の10月にこの公演は行われたのだが、この年、理生さんは何をしていたかと言うと、1月にSTスポットで雛ちゃんとパントマイマーの羽鳥さんによる小公演「二人ぼっち」を、3月にはタマリンドの「旅人たち」の再演をシアターVアカサカで行った。
そして6月には「二人ぼっち」のソウル公演が実現し、12月から翌年の1月にかけてはいよいよ蜷川さんとの共同作業「身毒丸」が上演されるのだった。
これらの作品に、私は一切関わっていない。
お互いに公演は見に行ったものの、それぞれ別々の活動をしていたと言っていいい。
続けて助成をいただいていた日本芸術文化振興基金は、「旅人たち」を使ってタマリンドに申請させていたし、その翌年は申請すらしなかった。
さすがにこれはもったいないと思い、翌年はSTスポットに、その翌年はタイニイアリスに申請の手続きをしてもらうようにお願いしたが、決して私自身は直接申請をしないようにして、一定の距離を保っていた。
結局、1999年の「迷児の天使」からはまた、私が申請するようになるのだが、その間5年間、私にはどうしても理生さんとの距離を取る時間が必要だったのだった。 理生さんが、それをどう感じていたか、実は私にもよく分からない。
しかし、その5年間に少しずつ、心身ともに磨耗していったように私には思えて仕方がない。
次回は、そんなお芝居とは一見無関係に思える、いくつかのエピソードを書こう。
番外公演5
私が理生さんから距離を取る為に、中野から高円寺に引っ越すと、なにも中野に住む理由がなくなった理生さんは、続いて阿佐ヶ谷に引っ越した。
このあたりが、今考えても当時の二人の微妙な関係を物語っていると思う。
その引越しの直接の原因になった事件が、「肺ガン事件」である。
ある日、いつものように理生さんに呼び出された私は、歩いて5分の中野の住処に行った。
部屋に入ると、理生さんが落ち込んでいて、「むなかた、落ち着いて聞いてね。わたし、じつはガンなの。肺ガンだって。」とぼつりと言う。
私はそれがあまりにも唐突だったのでとても信じられず、そんな告白を聞かされた時、どうしてよいのかも分からず、思わずこう言っていた。
「それは、なんと言っていいか分からないけど、なにかの間違いかもしれないから、もう一度わたしと一緒に大きな病院に行って、診察してもらいましょう。その診断次第でこれからやれることが違ってくるじゃない?」
理生さんはうつろな表情をして、「そうだね。」と言うと、「武藤にはその事を伝えたんだけど、和田さんにはどうしよう?」と聞く。
「他の人に告白するのは、もう一度診断してもらってからにしよう。」「そうだね、そうする。」
その日は、そのまま何も言えずに別れ、帰宅すると武藤さんに相談してみた。
武藤さんも私と同じ意見で、大学病院に行く日を理生さんと決めて、連絡をすると言う。
そして、今日はその病院に行くと言う日、私が待ち合わせの喫茶店で待っていると、武藤さんだけが入ってきて、こう言ったのだった。
「病院には行きたくないって言うんで、どうして?って問い詰めると、ガンだったっていうのは嘘だったんだって。」
私は空いた口が塞がらず、「何それ?」と呟いてしまった。
理生さんの嘘つきなのは自称していたくらいだから、他の場面でどんな嘘をついても驚きはしない。
しかし、自分の身体、しかも生死に関わる体の事で、一番心配するだろう二人に嘘をつくとはどういう事なのか。
「たぶん、病気なのは身体の方ではなくて、精神の方が弱っているんだと思うよ。」
そう言う武藤さんに、「分かった。じゃあ、もう少しのあいだ様子を見ててあげて。わたしはちょっと今連絡したくないから。」
そうなのだ。私はこの時、理生さんが嘘をついた事に怒っていたが、本当は、それが嘘だと言うことを、私にではなく武藤さんに伝えた事の方に嫉妬していたのかも知れない。
当たり前だ。理生さんと武藤さんとは、今は別に住んでいるとは言え、元の連れ合いだが、私と理生さんとは男と女の関係ではない。
それでも私としては、せめて理生さんの口から直接、「あれは嘘だったの。ごめんね。」と言う言葉が聞きたかった。
結局この事件は住んでるマンションに悪いモノが憑いてるんじゃないかということになり、引越しを決意するのだが、この時点で、私は理生さんと決別する覚悟を決めたと言ってもいい。
今となっては、あの時何故、そんな嘘を水に流し、嘘でもなんでもいいから、一度身体全部のガンを調べてもらいましょう。と強く言えなかったのか?
理生さんの直接の死因になりそうなのが大腸ガンだと分かった時、その事がまず私の脳裏に浮かんだ。
結局、理生さんは死ぬまで、この事件の事を一言も私に話さなかった。
私は私で、いままでよりもいちだんと距離を取るように連絡も間遠になっていった。
そして私は、横浜での野外劇を終えると、翌年は「ゴドーを待ちながら」の手話バージョンをすべく手話の勉強を始めていた。
理生さんは理生さんで、蜷川さんとの作業は「身毒丸」に続いて「草迷宮」も企画されていたし、国際交流基金からのオファーで、シンガポールの演出家オン・ケンセンによる「リア」の脚本依頼も受けていた。
シアターグループ太虚(タオ)の鈴木絢士氏との共同作業こそ、この年の「ダナイード」をきっかけに破綻していたものの、韓国から好きなパフォーマーを呼んでSTスポットでやらせたり、フランスのジュエル・レアンドルと言うベーシストとのコラボレーションを、これまたSTスポットでやったりしていた。
そして、翌年はそのSTスポットによる公演として、つまりSTスポットに振興基金の申請をしてもらっての公演が控えていた。
私は、この公演に久しぶりに俳優としてのみの参加をすることになる。
「男たちのできごと」の頃
理生さんとの関係に一定の距離をおいてはいたものの、全く関係を切るつもりは私にもなかった。
やはり一度はこの人しかいないと信じた劇作家だったし、理生さんと関係なく公演をしようと思っても、他にはこれはという劇作家も見当たらず、既成の劇作家の脚本である「ゴドーを待ちながら」を、さまざまなバージョンで上演することを考えていたのだった。
もともと俳優だった私としては、理生さんの作品に関わるにしても、制作込みではなく、なるべくならば純粋に俳優として関わりたくもあった。
劇団時代も含めて、決して有能な制作だったワケでもなく、世の中には理生さんのプロジェクトなら制作を引き受けてもいいと言うプロデューサーは、たくさんいると思ってもいたのだ。
また、申請すればかならず助成される芸術振興基金のお金が、いくら私が制作をしたくないからと言って、そのせいでもらえないのはもったいないとも思っていた。
そんな訳で、この「男たちのできごと」は、前年暮れの申請時に、STスポットの岡崎さんにお願いして、STスポットとして申請をしてもらって、私自身は俳優としてのみの参加を狙った公演だったのだ。
快く引き受けてくれた岡崎さんのおかげで、無事助成金もおり、韓国から一人の俳優を招いて一ヶ月稽古をして本番を迎えることが出来た。
この公演から熟年俳優の小林達雄さんが、常連メンバーに加わった。
いつものメンバーの私、諏訪部さん、竹広さんを含めて、中年の日本人男優が4人。
そこにやって来る韓国の男優は、まだ若いカン・ジース氏。
物語は、そんな現場の状況そのままに、日本人の中年男4人がたわいない会話をしていると、そこに言葉の分からない少年がやって来る。
少年は身振り手振りで「自分は空からやってきた」のだと言う。「空に帰りたい」とも言う。
彼も4人には分からない言葉を喋るのだが、4人にはそれが韓国語だとは分からない。
近くて遠い言葉の遊びをしているうちに、いつのまにか4人と少年との間に心の交流が生まれる。
そんな大人のメルヘンのようなお話だった。
韓国の俳優を稽古から呼んで共同作業をする方法については、既に何度も経験していたので、理生さんに戸惑いは無かった。
通訳もジース氏自身の友人がちょうど日本に留学していて、喜んで引き受けてくれたので、精神面も含めて心強い味方となったに違いない。
理生さんの韓国語学習はいよいよ熱を帯び、この公演では自ら韓国語で詩を書いて読ませたりもした。
私自身は久しぶりに俳優に専念することができたのだが、制作でないことがなんとなく手持ち無沙汰でもあり、現場の空気もぬるいと言うか張り合いがないというか、少し物足りなさを感じた公演でもあった。
しかし、ジース氏と日本人俳優4人もだんだんと打ち解けていったし、アットホームで平和な現場であったとも言える。
こうして公演は好評のうちに幕を閉じたのだが、私はこの公演を見に来ていたタイニイ・アリスの丹羽さんに、翌年の振興基金の申請をお願いする。
丹羽さんは喜んでそれを引き受けてくれ、私は翌年も理生さんの制作業務に携わらずに済むことになる。
まだまだこの時点では、理生さんに近づき過ぎてしまう事への警戒感は強かった。
それにこの頃、私の興味は手話を通して、聴覚障害や知的障害に向かっていて、ハンディキャップと一緒に作るワークショップに面白さを感じていたのだ。
もちろん韓国人とのコラボレーションは面白かったのだが、私の興味の対象のワンノブゼムでしかなかったのである。
そして私はこの公演の後、しばらくの間、客演での公演を除けば、公演活動から遠ざかってしまうのだった。
理生さんとも2ヶ月か3ヶ月に一回くらい会えばいいところで、長い長い雌伏期に入ってゆく。
それを理生さんがどう感じていたかは分からない。
しかし私としては、そうやって離れている時間が一定の期間、確実に必要だったのだ。
それは、自分と演劇、自分と人生をもう一度冷静に見つめる時間だったとも言える。
番外公演6
この頃、私はいったい何を考えていたのだろう?
理生さんと一定の距離を持つことには成功していたものの、では自分独自の公演ができていたかと言うと、全くと言っていい程、舞台から遠ざかっていた。
96年に購入したパソコンを使って、ホームページを開いたり、手話サークルに参加したり、ハンディキャップとのワークショップを通して、舞踏家の中島夏に師事したりもしていた。
理生さんと離れたのはいいものの、では他に作品を作るとなると、結局自分自身の手で脚本を書き、自分自身の手で演出をし、自分自身の方法で舞台を作るしかなかったし、その為にやらなくてはならない作業は山のようにあったとも言える。
脚本を書くと言っても、いままで文章といえば制作の挨拶文程度しか書いた事がない。
そこで、まず文章を書く習慣をつけようと、その後もしばらく続けることになる、コンビニについてのエッセイをネットに書き始める。
これが思いのほか評判がよく、続けてお芝居についてのエッセイと「向こう側」と言うタイトルのフィクションを書き始める。
これらの文章をネットにアップすることで、ネットを通した全く新しい知り合いもたくさんできた。
何を隠そう、現在の私の妻とも、そんなネットでの関係で知り合ったし、「プロジェクト・ムー」の活動もネットを起点として立ち上がったのだ。
また、コンビニの仕事とネットという生活で、ブクブクと太った体を絞る為もあって、中島夏さんのワークショップにも積極的に参加した。
もともと踊りは大好きで、宴会の度に好き勝手に踊っていただけあって、夏さんの教えてくれる即興ダンスは本当に面白かった。
そして、「ゴドーを待ちながら」も、英語版、手話版に続き、日本語版野外劇を1999年という世紀末の7月にやる事を企画する。
これは東京グローブ座の隣りにある野外円形劇場を使って行ったもので、その後三年間連続でその場所で公演をすることになる。
一方、理生さんは何をやっていたかと言うと、97年はタイニイ・アリスの制作で「空から来た人」というタイトルの、日韓合同公演を行い、98年は演劇集団円の演出家で古くからの知り合いの山本健翔氏の企画で「三人姉妹」を上演した。
この二つの公演に、雛ちゃんなどは参加するのだが、私は一切関わらなかった。
もちろん、この頃蜷川幸雄氏との共同作業は二本目の「草迷宮」と「身毒丸」の再演が立て続けにあったし、オン・ケンセン氏との共同作業「リア」もいよいよ始まり、翌年はヨーロッパ・アジアツアーと続いていたが、それらの企画にも一切関わりを持つことはなかった。
では、私と理生さんは実際にどの程度コンタクトを取っていたかと言うと、だいたい一ヶ月に一回くらい、お互いの都合のいい日に夕食を一緒にとり、近況報告をするといった程度のものだった。
だからこの間、理生さんの心身がどういう状態だったのが、正確には知る由も無い。
しかし、たまに会う機会に話す言葉は、少しずつ自分本位になり、ほとんど私の話を聞いていないことも多かった。
アルコールも相当な量を飲んでいたらしく、冷蔵庫にいっぱいのワインを見た時には、少しヤバイのではないかとも思った。
そんな危惧が的中し、一度は肝臓を壊し、近くの病院に緊急入院したこともあった。
これには私が付き添ったのだが、肝機能の低下以外には特に異常は見られなくて、ほぼ一週間の病院での健康な生活と点滴によって簡単に治ってしまった。
この入院で理生さんの体は、自分で言っていた程には、どこも悪くないということが判明して、私としては益々理生さんとの距離を安心して置けるようになったとも言える。
しかし実はもうこの時期から理生さんは、自分の体を自分でも持て余していたのかも知れない。
今、その頃の理生さんの日記を少しづつ読み始めたのだが、いつ誰と何をしたという記述の後に、必ず睡眠の状態と眠剤の服用程度、食事の内容と時間が書かれている。
その繰り返しの執拗さはかなり異常とも言えるもので、自分の体の状態をなんとか正常にしたいと希求しつつ、なかなかそれが叶わない状態が如実に文章に現れているのである。
理生さん!
私は、そんな理生さんの心身の状態に気がついてあげられなかったけど、この頃既に病魔に蝕まれつつあったのでしょうか?
その後も何度も腰痛を訴え、いろんな病院にも付き添いながら、結局原因を突き止める事ができなかったことを、そして芝居以外の私生活においても何の役にもたてなかったことを、私は今でも少し後悔しています。
「迷児の天使」の頃
その頃は、理生さんとの距離を一定以上に近づけないようにしたいと思いつつ、他の活動もままならない私がいた。
一方の理生さんの方も、いろいろと集団の形を変えて公演の方法を模索したものの、やはり私以外の制作はなかなかに不都合が多かったに違いない。
そんな中で理生さんは「男たちのできごと」の私以外の日本人出演者三人、つまり小林達雄、諏訪部仁、竹広零二、それに雛ちゃんを伴って、韓国に旅行に行く。
これは「男たちのできごと」に出演してくれたカン・ジース氏を訪ねる事を名目にした観光旅行であった。
私はこの旅に参加しなかったのだが、帰国後彼らから「男たちのできごと」を再演しないかとの話を持ちかけられた。
もちろん、私よりも年上の役者さんたちばかりからのお誘いだし、「男たちのできごと」は作品としても好きだったので、詳しい話を聞いてみた。
ところが、この話は単に私に役者として参加を要請したものではなく、翌年の芸術文化振興基金の申請をこの「男たちのできごと」の再演で私にやってくれないかというものだった。
何のことは無い。制作としての参加要請を直接にはしづらい理生さんが、他の役者たちを使って間接的に私に持ちかけた話だったのだ。
私は迷った。折角理生さんとの距離を取ることができていたのに、これを引き受けたら元の木阿弥のような気がしたのだ。
そこで私は苦肉の策として、この振興基金の申請についてのみ引き受ける事にして、制作は皆でやって欲しい旨をお願いした。
もちろん実質的には私が制作雑務を引き受けることになるのだが、形としては私以外に制作がいるという名目がこの時期はまだ必要だと感じていたのだ。
それから、翌1999年は7月に「プロジェクト・ムー」の企画制作で、「1999年7月 ゴドーを待ちながら」の野外劇を考えていたので、この「男たちのできごと」再演はその後ということにしてもらった。
幸い阿佐ヶ谷の当時の理生さんの家のそばに「ザムザ阿佐ヶ谷」と言う新しい小劇場ができ、そこのオーナーと理生さんを会わせると、劇場費を割安にしてもらえると言うことで、都合のいい時期が好条件で借りられた。
しかもその劇場の現場担当は既に無くなっていた渋谷ジアンジアンのスタッフだった奥山さんで、その為に話はトントン拍子に進んだ。
雛ちゃんの提案で「男たちのできごと」の再演ではなく、新しいタイトルをつけた方がいいということになり、「迷児の天使」のタイトルで申請を行う事も決まった。
この「迷児の天使」では、「男たちのできごと」の時よりも、一層役者たちに言葉を持ち込ませ、ほとんど即興とも言えるシーンを多く設定した。
もちろん、大きな劇の構造は変えなかったし、即興とは言え何度も何度も稽古して、たくさんのシバリも要求をした。
曰く、日本語と韓国語の相違点が劇の中心だったので「英語は一切禁句」だったし、役者たちが持ち込む四文字熟語なり、天使を空に帰す方法なりも、面白くなければ容赦なくカットされた。
今回カン・ジース氏に代わって参加したのはファン・テクカ氏で、音楽家として参加してくれたキム・キヨン氏と伴に、非常によく私たちのやろうとしている演劇に理解を示し、まるで長年一緒にやっている仲間のような感覚さえ持てたような気がする。
舞台の評価はかなり高く概ね好評だったが、いかんせん久しぶりの岸田理生カンパニーの公演だったこともあって、世間的にはそれほど評判にはならなかった。
そして、私と理生さんとの距離も、それまでの硬直した関係とは打って変わって、少し親密度を増して終演した。
これは、作品のできが良かったことも大きいが、それ以上に私の個人的な感情が大きかったと思う。
この「迷児の天使」の上演の直前に、プロジェクト・ムーと言う私個人の企画公演「1999年7月 ゴドーを待ちながら」が成功に終わっていて、翌年も同じメンバーで別の作品を上演する予定があった事が大きかったのだ。
つまり、自分自身の公演がキチンと軌道に乗ってきた事が、理生さんとの共同作業をもう一度始めるのを決断させたと言うことだ。
だから終演後すぐに翌年の話ができたし、翌年からは一年に一本理生さんの公演に積極的に協力し、その分自分の企画公演も一年に一本はやろうと決意していたのである。
そして、その決意通り翌年度は岸田理生カンパニーによる「ソラ ハヌル ランギット」と、プロジェクト・ムーによる「ブリッジ」の両方の企画を同時に進める事ができたのである。
「ソラ ハヌル ランギット」の頃
岸田理生の作品の中で、一番良かった作品は何でしたか?
そう聞かれた時、私は迷わずこの「ソラ ハヌル ランギット」を挙げるだろう。
もちろん「糸地獄」にしても「料理人」にしても、完成度とかスケールの大きさとか観客の反応とか、もっと優れた作品も数多い。
しかし、私としてはこの「ソラ ハヌル ランギット」には特別な想いがあるのだ。
それは、岸田理生カンパニーとしての最後の作品だったからだけでなく、私と理生さんとが数年間のブランクを経て再び共同作業できる関係になった作品でもあったからだ。
しかも、作品のベースこそ「鳥よ鳥よ青い鳥よ」に置いてはいるものの、日本語、韓国語、中国語、英語、そして日本手話と、多言語の飛び交う画期的で新鮮な舞台で、こんな演劇をやるのは理生さんの他にはどこにも見当たらないと言ってもいい作品だったからだ。
そして、この「ソラ ハヌル ランギット」の成功は、その次の公演では益々充実した舞台が出来ることを予感させ、劇団の新しい形も徐々にではあるが軌道に乗ってきていたともいえる。
だが、そんな絶頂の時期に、私たちの活動は突然断ち切られてしまった。
「迷児の天使」の公演が終わると、私と理生さんは、この「ソラ ハヌル ランギット」で翌年度の申請準備にかかった。
なにしろ今度は韓国から一人と、シンガポールから一人、俳優を招聘しなくてはならない。
私たちは文化振興基金だけではなく、セゾン文化財団にも申請をした。
もちろん理生さんは、演劇集団円から「永遠」の書き下ろしを要請されていたし、オン・ケンセンとの共同作業も二本目の「ディスディモーナ」に突入していて、これらの作業に私は全く関わることはなかった。
私の方も理生さんとは関係なく、プロジェクト・ムーでのプレステージとして3月「パリコンジュ」5月「銀河鉄道の夜」、そして9月には野外劇二本目となる処女作「ブリッジ」と、企画が目白押しであった。
しかし、そんな別々の活動があったにも関わらず、いや、私としては別の活動が軌道に乗ってきたからこそ、理生さんとの年に一本のカンパニー公演に真剣に取り掛かることができるようになったとも言える。
そしてもう一つ忘れてはならないプロジェクトが始まった。
第一回目のアジア女性演劇会議が終わってから、できることなら第二回目は別の国でやられるべきだと考えていた如月小春さんが、とうとうしびれを切らして、翌年の春東京でもう一度開催したいと言い出したのだ。
結果的にはその年の秋に急遽フィリピンでの開催が決まり、東京は第三回アジア女性演劇会議となったのだが、その実行委員に理生さんはもちろん、私にも入るように要請があったのだ。
そんな訳で、この年は理生さんも私もそれぞれの活動で忙しい時間の合間を縫って、だいたい一ヶ月に一回か二回は会うようになっていたのだ。
二人で会う時、理生さんは相変わらず腰痛と不眠とで自分の体を持て余しているようだったが、私としては常に充実した時間を持てるようになって嬉しかった。
つまり、会わないでお互い別の行動を取っていた時間がしばらくあって、やっとお互いにとって本当に必要な部分でのみ関係を取れるようになったと言える。
あるいは、再びベッタリ一緒に行動するような事にならないように、それまでは意識して距離を取っていたのが、ごくごく自然に丁度いい間隔を取っていられるようにやっとなったと言ってもいい。
そうして、そんな共同作業の真っ最中、「ソラ ハヌル ランギット」の本格的な公演準備にまだ入る前、私は一人の女性と結婚する事を理生さんに告げる。
彼女を紹介すると、理生さんは自分のことのように喜んでくれて、しかし、こう釘を指したのだった。
「まさか、子供は出来てないでしょうね?」と。
もちろんまだ出来ていなかったし、この時点では作る気もなかった私がその旨を伝えると、理生さんは心からホッとしたようにこうも言ったのだった。
「結婚しても私との作業はいつまでもやってね。」
「安保・花咲けるオカマたち」の頃
「ソラ ハヌル ランギット」の稽古に入る直前の12月、如月小春さんがくも膜下出血で倒れ、そのまま意識が戻ることなく急逝した。
アジア女性演劇会議の実行委員長として、9月には第二回アジア女性演劇会議の開催地フィリピンに行き、その報告会をパブリックシアターで行ったのだが、私がお会いしたのはその打ち上げが最後になってしまった。
倒れて入院したとは伺っていたが、そこまで悪いとは知らされていなかった。
そのショックは私たちにとって計り知れなかったが、翌年3月に予定されていた第三回アジア女性演劇会議をどうするか、お通夜が終わり翌週には私たち実行委員で善後策を考えなくてはならなかった。
既にほとんどの準備を終えていたし、あとは実行するのみだったので、私たちは如月さんの遺志を継ぐ形で頑張ろうということになった。
如月さんがやってきた実行委員長については、副委員長だった理生さんが代行として務める事になった。
「私は如月さんのように頭が良くないので、とにかく全日程に参加して挨拶をすることで、代行としての役目を果たしたい。」
理生さんは実行委員のメンバーにそんな話をした。
とにかく理生さんも私も会議の日程の直前まで、この「ソラ ハヌル ランギット」の公演があったので、無茶苦茶なスケジュールが予想された。
しかし私と理生さんにとっては、そんな逆風がかえって結束を強め、翌年の振興基金の申請も私が行う事を引き受けた。
題して「安保・花咲けるオカマたち」、キャッチコピーは「アンポは続くよどこまでも!」と、そこまで決まっていた。
大雑把な物語の内容を理生さんから聞き、申請書の作品概要に私はこう書いた。
60年安保の頃、新宿二丁目で政治騒乱とは無縁に生きていた4人のオカマ達がいる。
それから40年の歳月が過ぎ、4人は現在「旅路の果て特別病棟」と言う名の養老院で、寂しい老後を送っている。
なんの変哲もない日常、迫り来る死の恐怖、徐々に始まった老人性の痴呆症状。
そんな施設に、ある日、タイ人の美青年が介護にやって来る。
4人は彼のあまりの美貌に、青春時代を思い出し、長い間忘れていた化粧をし、とっておきの中国服を着て、いそいそと迎えるようになる。
自分の青年期の思い出「60年安保」の話、その安保に対する意見を、当時を知るはずもないタイの青年に繰り言のように語る4人。
と同時に、「あの子はあたしのモノよ!」「いいえ、あたしが先よ!」と、4人の間に若き日同様の、醜い取り合い争いが始まる。
最後に、4人がそれぞれ現代病に冒されて死ぬのを、青年は静かに看取り、こう呟いて去って行くのだった。
「もう、日本は必要なくなった。」
劇場は「ソラ ハヌル ランギット」と同じアゴラ劇場、時期もほぼ同じ2月に予定していて、4人の老オカマの役には小林達雄さんと、いき座の土井さん、新健二郎さん、そして旧転形劇場の品川さんを考えていた。
そんなご老体4人を今や劇団員のようになった諏訪部さんと竹広さん、そして私と雛ちゃんで支えるつもりだった。
品川さんからは色よい返事がもらえなかったが、他の準備は順調に進んでいた。
もちろん理生さんには円に「永遠パートⅡ」を書いたり、「ディスディモーナ」の福岡公演、「身毒丸」の再演などの作業があったし、私の方もプロジェクト・ムーの公演「芽」と、世田谷表現クラブの旗揚げ公演「ISSHO」があった。
お互い別々の活動をしながら、やはり定期的にコンタクトは取り続けていた。
9月頃、私は子供ができた事を理生さんに告げ、4月には生まれるので「安保」の公演に出演はできないと話した。
でも制作はその分キッチリやりますからと言ったものの、理生さんは少し不満そうだった。
そうこうしているうちに、いよいよ年明けには稽古に入るという、直前の12月、如月さんの一周忌のイヴェントがシアタートラムで行われ、リーディングを一緒に見に行く。
シンポジウムはあいにく私の都合で行けなかったのだが、それが理生さんが公の場に出た最後になってしまったのだった。
あの頃
その日私は理生さんと翌年度の諸々の申請の打ち合わせをする為に、理生さんの自宅を訪れた。
「安保・花咲けるオカマたち」の次に私たちが考えていた公演は、「二人のイ・ウン」と言うタイトルの日韓同時並行公演だった。
つまり脚本を、日本側の理生さんと韓国側のキム・カンリム氏と言う演劇人が共同で執筆し、その同じ脚本を使ってそれぞれが日韓で連続上演をしようと言うものだった。
イ・ウンというのは、朝鮮王朝最後の皇帝、純宗皇帝の弟で、日本の皇族梨本宮方子と政略結婚させられた男の名前である。
その時代と状況設定の関係で、日本語の部分を理生さんが書き、韓国語の部分をキム・カンリム氏が書く予定だった。
この時点では公演の規模形態はハッキリとは決まっていなかったが、それだけにその日の申請の打ち合わせは芸術文化振興基金、セゾン文化財団の他に、国際交流基金にも照準を合わせなくてはならなくて、絶対にはずせない打ち合わせだった。
ところが私が理生さん宅を訪ねると、理生さんは留守で、チャイムを押しても電話をしても反応がなかったのだ。
私は半ば腹を立て半ば呆れて、横浜の自宅に戻った。
翌日はバイトが入っていて、それでも何度かは電話してみたのだが、全くナシのツブテだった。
なにしろ諸々の申請期限が迫っていたのにスッポカすのがどうもおかしいと、さすがに少し心配になり、それでもたまに疲れると実家の岡谷に帰ることもあったので、実家のお母様にまで連絡をしてみるも、そこにもいないと言う。
どうしてしまったのか、いろいろと想像しつつも、まさか倒れているとも思わず、翌日の夕方「二人のイ・ウン」の公演で通訳をお願いする人に会った後、もう一度理生さん宅を訪ねてみた。
合鍵を使って部屋に入ると、ベッドの脇に理生さんは倒れていて、口から泡を吐きながらそれでも呼吸をしていた。
約三日間寒い自宅に放置してしまったことは悔いても悔い切れない。
もちろんその為に脳が損傷した可能性もあるし、その後の蘇生の段階でも何か他の治療ができたのではないかと何度も考えてもみた。
しかし体の事はよく分からないし、結局死因は大腸ガンで、この時もう少し早く発見できていても、ガンの進行がどうなっていたのかも分からない。
とにかくそのようにして理生さんとの共同作業は突然中断し、決して復活することはなかった。
東京の病院での闘病中は週に二回は病院にお見舞いに行った。
4月に無事生まれた我が子に理生さんの「生」の字を一文字もらい「芽生人」と名付けた。
岡谷に戻ってからも月に一回は行くようにしていた。
病状は一進一退を繰り返し、結局2003年6月28日、理生さんは帰らぬ人となった。
こうして今、理生さんと一緒に作り上げたお芝居の事を書いていても、一本一本の舞台が鮮明に思い出されるようだ。
「夢に見られた男」から始まり、いろんな形での公演はあったが、主なモノだけでも最後の「ソラ ハヌル ランギット」までで56本にも及ぶ。
そして理生さんが倒れてからは、理生さんの作品はもちろん、他の舞台もキチンとした形ではできていない。
共同作業をしてきた一本一本を供養するように、この連載を書いてきたのも、そうしないでは次に進むことが出来ないと思ったからだ。
それも今回で終了する。
しかし、今後どんな形で舞台を作る事になろうとも、理生さんとの一つ一つの「あの頃」が私を励まし叱咤してくれることだろう。
その舞台表現の現われとして、まず私は来年7月「糸地獄」を上演する。
そして、いつの日か、最後になって上演できなかった「安保・花咲けるオカマたち」と「二人のイ・ウン」の舞台化も実現してみたいと思っている。
そこまでの作業が終わった時、改めてまた理生さんに、こう問い掛けてみようと思う。
「理生さん、あの頃、こんな事がありましたね!」と。
終わりに
この連載は、理生さんが亡くなった二年後に書かれたもので、自分の想いに駆られて書いた為に、まわりにいた劇団員などにとっては、不本意な表現もあるかと思う。
しかし、理生さんとともに作ってきた舞台と、その当時の記憶の断片だけでも文章として残しておきたかったのだ。
それからもう既に17年の年月が過ぎ、改めて読み返してみると、はるかに昔の記憶なのに、一つ一つが鮮明に蘇ってくるようだ。
命日を挟んで毎年行われるリオフェスは、いまだに勢いを落とす事なく続けられ、私の理生さんへの想いもまだまだ続いている。
そんななかで、岸田理生のことを全く知らなかった若い演劇人と出会い、また新たに岸田理生のテキストについて再考する機会にも恵まれている。
次週からは、そんなリオフェスの思い出を書き綴ってみようと思う。
虎は死して屍を残す。理生さんは死してテキストを残す。
理生さんに意見を聞く事はできないが、リオフェスで新たに出会った人達との活動を墓前に捧げるつもりで書いてみる。
乞うご期待!!